戦地に散った球児たち(6)<作家・木内昇> (1/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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戦地に散った球児たち(6)<作家・木内昇>

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 昭和8(1933)年、延長25回に及ぶ伝説の準決勝で敗退した明石中。大投手の楠本保(14~43)を温存、2番手の中田武雄(15~43)が登板したのはなぜだったのか。ともに慶応大へ進み、楠本の妻が嫉妬したほど仲が良かった二人。戦地での最期も、連れ立つかのようだった。

「戦地に散った球児たち(5)」よりつづく

*  *  *
■中京商との25回 投げ抜いた中田

 凄まじい投手戦だった。中京商のエース・吉田正男は前年、前々年と2年連続で夏の優勝旗を手にした逸材。いわゆる巧い投手で、制球力、配球、緩急の付け方まで中学生離れしていた。ちなみにこのときの中京商のショートが、のちに嶋清一を教える杉浦清である。

 対する中田も集中力を欠くことなく、抜群のコントロールで中京商打線を凡打に打ち取っていく。両者、無得点のまま10回を超え、20回に達した。中継するアナウンサーの声も嗄れるほどの長丁場だ。

 この試合の模様を球審の水上義信が書き残している。水上は、第1回選抜で準優勝した早稲田実業のエースだった人物である。

「中京は吉田、明石は中田の両投手が、共にあのスリバチの底の炎天下で二十五回投げ通し、竹で作った急造のつぎたしスコアボードに次々と0を並べていった。両軍投手がかわらなかったのも珍しい記録である」

 楠本を出せ、という声が上がったはずだ。本人も苦しむ中田の援護を申し出たのではないか。継投策は当時もよく用いられていたし、吉田に比肩する投手がいない中京商と違い、明石中は楠本、中田と繋いだ試合を既に経ている。しかも楠本にはこれが最後の夏。なぜ登板の機会が与えられなかったのか謎だったが、真相を伺って一驚した。


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