昭和8(1933)年、延長25回に及ぶ伝説の準決勝で敗退した明石中。大投手の楠本保(14~43)を温存、2番手の中田武雄(15~43)が登板したのはなぜだったのか。ともに慶応大へ進み、楠本の妻が嫉妬したほど仲が良かった二人。戦地での最期も、連れ立つかのようだった。

「戦地に散った球児たち(5)」よりつづく

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■中京商との25回 投げ抜いた中田

 凄まじい投手戦だった。中京商のエース・吉田正男は前年、前々年と2年連続で夏の優勝旗を手にした逸材。いわゆる巧い投手で、制球力、配球、緩急の付け方まで中学生離れしていた。ちなみにこのときの中京商のショートが、のちに嶋清一を教える杉浦清である。

 対する中田も集中力を欠くことなく、抜群のコントロールで中京商打線を凡打に打ち取っていく。両者、無得点のまま10回を超え、20回に達した。中継するアナウンサーの声も嗄れるほどの長丁場だ。

 この試合の模様を球審の水上義信が書き残している。水上は、第1回選抜で準優勝した早稲田実業のエースだった人物である。

「中京は吉田、明石は中田の両投手が、共にあのスリバチの底の炎天下で二十五回投げ通し、竹で作った急造のつぎたしスコアボードに次々と0を並べていった。両軍投手がかわらなかったのも珍しい記録である」

 楠本を出せ、という声が上がったはずだ。本人も苦しむ中田の援護を申し出たのではないか。継投策は当時もよく用いられていたし、吉田に比肩する投手がいない中京商と違い、明石中は楠本、中田と繋いだ試合を既に経ている。しかも楠本にはこれが最後の夏。なぜ登板の機会が与えられなかったのか謎だったが、真相を伺って一驚した。

 
「それが、親父はこのとき心臓脚気を患っていたようなんです。春頃からあまり調子はよくなかったようなのですが」(保彦さん)

 夏の大会では足が小刻みに震え、顔が青黒くむくむほど悪化していたという。3回戦まで投げるだけでも実は精一杯だったのだ。

 投げたくとも投げられない楠本先輩の分まで、と中田も踏ん張ったのだろう。中京商の強力打線を抑えていたが、25回裏、ついに綻びが出る。先頭打者の7番前田に四球を与えると、次の野口が三塁線にバント。この打球を捕りに行った三塁手と中田がお見合いし、ノーアウト一、二塁。さらに9番鬼頭もバントを転がし、中田は三塁封殺を狙うもセーフ。1番に返って大野木をセカンドゴロに仕留めたが本塁送球が逸れ、ここに4時間55分にも及ぶ熱戦は幕を閉じたのである。

 試合後、球審の水上が、敗戦投手となった中田に「どうだ、疲れたか」と声を掛けた。すると彼はいつもの元気な笑顔を見せて、「20回以後は肩が棒のようでした」と答えたという。

 明石中はベスト4に終わったが、選手たちを迎える明石市民は温かかった。当時明石中の監督だった高田勝生が記している。「負けて帰る私たち一行を迎えて、明石駅頭は市民でいっぱい。まるで凱旋将軍を迎えるように盛大であった」

 さて、くだんの美代子さんである。もちろんその後も、明石中の試合に通い続けた。そして、楠本が慶応大野球部を経て、大正興業に就職した昭和16(41)年、ふたりは結婚するのだ。そこに至るまでの、出会いや交際のエピソードは知られていない。保彦さんも細かには聞いていないという。

「おふくろは活発で積極的な性格なので、自分から話すきっかけを作ったんじゃないでしょうか。妹を使って、親父に手紙を渡していたりしたようですよ」

 
 結婚には反対もあった。世紀の大投手・楠本の相手は有名女優がふさわしいとの乱暴な意見も周りから出たが、楠本は突っぱねた。自分の野球人生を見守り理解してくれた女性だからこそ、彼は大事に想ったのだ。それに、写真に残る結婚当初の美代子さんは息を呑むほど美しい。女学生の頃から11年間一途に想い続けた人と結ばれた喜びが、彼女を内側からも輝かせていたのだろう。

■楠本の雄姿追い 甲子園通った妻

 しかし彼女が切に望んだ結婚生活は、わずか10カ月で終わりを告げる。昭和17(42)年2月、楠本は召集され篠山第六十八部隊に入隊。中国江西省に出征する。同年8月に誕生した保彦さんの写真を、戦友達にうれしそうに見せていたというが、実際に息子を抱くことはついぞかなわなかった。翌年、湖北省の黄梅県に渡り、分隊長として戦っていた7月23日、頭部を弾が貫通し、亡くなったのだ。

 奇しくもこの前日、水上機母艦「日進」の船上にあった中田武雄も、敵の攻撃を受けて命を落としている。ともに明石中を盛り上げ、兄弟のように仲の良かったふたりの投手は、1日違いで戦場に散ったのである。

 戦後美代子さんは、東京の戸山母子寮に身を寄せる。都立高校の職員となり、女手ひとつで保彦さんを育て上げた。父親のことを、非の打ち所がない、スケールの大きな人だったと、幾度となく息子に語って聞かせた。

「あの当時は本当に苦しい状況でした。でもおふくろは気丈で、エネルギーに溢れていました」(保彦さん)

 苦労を支えたものは、憧れ想い続けた人に愛された記憶だったのではないか。そこまで想える人に出会えた美代子さんの人生は、どれほど幸せだったかと思う。

 美代子さんは80歳ごろまで、毎年春夏とも甲子園に通い続けた。六甲山の宿に逗留し、期間中の全試合を観戦したという。

「春に行って夏の宿を予約して、夏に行って翌年春の宿をとる。体力を消耗して、新幹線で倒れたことも。おふくろの人生時計は、あの甲子園で止まっていたんでしょうね」(保彦さん)

 
 野球殿堂博物館の司書・小川晶子さんも、美代子さんの印象をこう語る。

「お年を召しても女学生のような可愛らしい方で、いつも選抜大会、選手権大会を見に行かれたお話をされていました。確かヤクルトの青島健太選手がお気に入りのようでした。たぶん楠本保選手に雰囲気が似ていらしたからだと思います」

 野茂英雄の大ファンでもあったと、保彦さんは言う。楠本に投球フォームが似ていたからだった。

 美代子さんは昨年、98年の生涯を閉じた。楠本亡き後も、彼が躍動した甲子園に佇むことで、その雄姿を追い続けた生涯だった。

 学生野球の父・飛田穂洲は昭和33(58)年、「平和の象徴」なる一文を大会史に寄せた。「第一次そして第二次の世界大戦に脅かされた地上の人類は、三度必ず襲い来るであろう第三次の世界大戦という幻影に恐れおののいている」

 そして甲子園大会の意味をこう説くのだ。

「甲子園の大会は平和のシンボルであり、この大平和運動が全世界に拡がって、人間同士の殺し合い、争奪の醜態が抹殺される日まで、この世界的行事は清く美しく勇ましい少年の独壇場として残らねばならない」

 私たちはこれ以上、偉大な野球選手を失ってはならない。野球に限らず、誰もがそれぞれの夢や目標に向かって、自由に存分に歩んでいける世の中を保ち続けなければならない。

木内昇(きうち・のぼり)
直木賞作家。1967年生まれ。野球通で、昨夏は甲子園観戦記を本誌に連載。代表作に『漂砂のうたう』『櫛挽道守』

週刊朝日  2015年8月14日号