内海桂子が“昭和”を振り返る 戦地慰問で感じた終戦の瞬間 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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内海桂子が“昭和”を振り返る 戦地慰問で感じた終戦の瞬間

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週刊朝日

 92歳という年齢ながらも今なお現役で高座に立つ漫才師・内海桂子さん。戦時中も戦地慰問に行っていた内海さんがその時を振り返る。

*  *  *
 昭和といえば、やっぱりこの時代かしらねえ。陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)の申し付けで戦地慰問に行ったのよ。18年に満州、19(44)年には河北省の北支関東軍へと、2度行かされたの。満洲里、海拉爾(ハイラル)といったあたりを2カ月ほど回りました。前の日に笑って聞いてくれた新兵さんの枕辺に、あくる日は線香が立っているなんてこともあってね。

 満州から帰ってしばらくして、あたしはのちにコンビを組む内海好江の母親のきょうだい弟子の林家染芳と組んだの。そして翌19年、北支に2度目の慰問へ。そのときの部隊長さんが、とても良くしてくれた。男ばかりの兵舎なもので、他の部屋には寝かせられないと、部隊長さんの隣の副官の部屋が女の子3人に用意されてね。夜中にオシッコに起きたら、廊下は広いわ電気はひとつしかないわで、便所がどこかわからない。女3人で騒いでいたら、出てきてくれたのが部隊長さんで、便所まで案内していただいた。

 天津の近くから張家口、万里の長城などの駐屯隊を回ったんだけど、凍った川を軍用トラックで走っていると、両岸の小高いところから狙撃される。それだから、慰問団は狙われやすい運転席から離れた後部に乗せられてね。兵隊さんにはものすごく大事にされましたよ。

 戦地慰問に行くことになったとき、下町のことだから、おふくろに「2歳のお子さんを残して戦地にやっていいのか」とご注進に及ぶ人がいて。おふくろは「男だったら兵隊ですよ。慰問は芸人の使命」なんてやり返して、当時はみんなそういう了見でしたね。でも、20(45)年に入ってから南方へという話があったときは、さすがにおふくろも猛反対だったわよ(笑)。

 外地への慰問とは別に国内の農村慰問というのがあって、これも陸軍恤兵部から興行会社に命令がきて、芸人が割り当てられたのね。あたしたちもお国の命令で日本中、ほとんど回ったね。

 終戦の日も兵隊の部隊慰問に出ていてね。常磐線で茨城県の水戸に行ってたんだけど、玉音放送は移動中で聞けなかった。で、学校を兵舎にしていた部隊に行っても担当者が全然やってこなくて、ただごちゃごちゃしているだけ。どうしたのかなと思ったら「戦争、終わったよ」って──。

 それで兵舎を見ていると、兵隊さんたちがてんでに軍の備品をリヤカーに積んで持ち出しているんだね。つい昨日まで、ゲートル1枚、鉛筆1本だって天皇陛下から下賜いただいた物だったのに。その光景を見て、ああ、これが戦争に負けたっていうことなんだなと思いました。

週刊朝日  2015年1月30日号より抜粋


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