天皇幼少期の「帝王教育」に注目したのは、京都産業大学名誉教授の所功さん(72)。日記をつけていたこと、自ら物語を創ったこと、算数が好きでなかったことなどが、「昭和天皇実録」に生き生きと記されている。

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 全体を通読しますと、明治40年代から昭和の初期までの幼少期から青年時代のことは、かなり具体的な逸話も引きながら生き生きと描かれています。しかし、戦中から戦後のことはまだ公私の資料が出尽くしておらず、関係した遺家族ら当事者も少なくないので、詳しい内容にまで立ち入れば、問題が生じかねないことに配慮したようです。

 したがって、むしろ幼少期の記述、とりわけ教育に関する内容が興味深い。たとえば、ご自分で日記をつけていたとの記述です。明治44(1911)年4月23日には「この日、御日記の草稿を記され、ついで御清書になる。以後、学習院休業の日は、御日記をつけられる」とあります。また大正4(15)年1月1日には「本年より博文館の当用日記を用いられることになり、御記入を始められる。以後ほぼ毎日、御夕餐後に日記を記される」とあります。

 学習院初等学科のころから、歴史への興味を示す記述も見られます。3年生の明治43(10)年4月6日には「歴史上の人物を種々御批評になる。特に天智天皇や豊臣秀吉に関心を寄せられる」。7月6日には「歴史に関する話題を好んでお聞きになり(略)、関ケ原の戦いに関する戦史の地図を御覧になり、裏切りをする二心を持った者を嫌う旨を仰せになる」と書かれています。

 外国の物語にも興味を持たれました。同年7月14日には「親王はイソップ物語を好まれ、日に二度、三度と側近よりお聞き取りになる。この日は『きつねとうま』と題する、ウマに馬鹿にされたキツネが豆に化けたところ、ウマに食べられてしまう、というイソップ風の物語を御自ら御創作になる」とある。物語の創作までしておられたことは、初めて知りました。

 明治45(12)年3月16日、「物語創作を御発案になり、この日『裕仁新イソップ』と命名される。その第一作は『海魚の不平』(略)続いて『二匹のはや』(略)『鮠(はや)と蛙』『魚の釣』と題する御作もあり」と例示されており、純真で想像力豊かだったことがわかります。

 物語好きは晩年まで続いたのでしょうか。大病に倒れた1カ月後の昭和63(88)年10月18日、「(常陸宮)正仁親王妃華子が朗読したイタリアの民話『クリン王』『風で生きていた花嫁』の録音テープをお聴きになる」という記述があり、心温まります。

 生物への興味は広く知られていますが、印象深いのは3年生だった明治43年9月6日、神奈川県三崎町油壺(あぶらつぼ)にある東京帝大の臨海実験所を見学されたことが「最も好みとなった旨を仰せになる」との記述です。また、植物や昆虫、魚介類を採取して、標本作成や名称の確認に熱心だったことも記されています。さらに5年生の明治45年4月27日、解剖したカエルを庭に埋め、「『正一位蛙大明神』の称号を賜う」との記事には感服しました。

 一方、好まれない科目もあったらしく、同年6月18日、「算術は重要ではないとの理由で、第四時限の理科と算数の時間の入れ替えの御希望を洩(も)らされる。側近より注意申し上げるも、繰り返し述べられた」とあります。

週刊朝日  2014年10月24日号より抜粋