元西武ライオンズのエースで、同チームの監督も務めた東尾修氏。プロ野球選手の“引き際”についてこういう。

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 日本ハムの稲葉篤紀が引退を表明した。昨年3月のWBCでも、侍ジャパンの主将・阿部慎之助をバックアップし、チームの雰囲気づくりにも尽力してくれた。本当にクリーンな印象そのままの選手で、裏表がない。野球に対する姿勢を含め、本当に素晴らしい人格者だと思うよ。

 日本ハムではコーチ兼任もやっていたが、背中を見せるというか、現場で一緒にプレーしながら生きざまを伝えるというのは、若手にとっては最高の教材だよな。コーチから口うるさく言われるより説得力がある。今後も指導者として活躍するだろうが、稲葉本人にとっても、コーチ兼任をやった経験が生きるはずだよ。

 この時期になると、引退や戦力外など、野球界の厳しい面も見えてくる。私が現役引退を決めたのは、1988年の西武−中日の日本シリーズだった。先発ローテーションから外れた私は、第1戦(ナゴヤ球場)で、4−1で迎えた8回無死一、二塁、中日の打者・彦野利勝の場面で先発の渡辺久信をリリーフした。当然、最後まで投げ切るつもりでマウンドに上がった。

 しかし、当時の森祇晶監督の言葉は「この1人を抑えてくれ」だった。次打者には左打者の立浪和義がおり、ブルペンでも左投手が準備していた。森監督からすれば、単純に勝つための最善手として、1人を確実に抑えてほしいとの思いから出た言葉だったろう。

 しかし、私の受け止め方は違った。彦野を初球、内角シュートで三ゴロ併殺。2死三塁となって、立浪は3球三振に仕留め、わずか4球でピンチを切り抜けた。9回も投げ切ったが、監督の言葉は私の心に強く残った。その日の夜、知人に引退の意思を口にした。

「球団、監督と、自分とのギャップ」が引退の理由かな。自分では、衰えを感じながらも、まだチームの中で、できることはあると考えていた。勝負どころで力を発揮できる自信もあった。しかし、私自身が考えるチーム内の立ち位置と、監督や球団が考える私のポジションがずれてしまったと感じた。ライオンズ一筋で20年間投げてきた。20年という充足した思いも、重なった部分もある。

 引退は球団や監督との関係も複雑に絡み合う。逆に監督と親密すぎて、監督の苦しむ姿を見たくないと、引退を決意した選手もかつている。さらに時代も変わった。私が引退を決意したころは、まさにバブル時代。現役引退後も、評論家として食べていけるだけのニーズがあった。でも、今は評論家の絶対数も減っている。引退後の人生設計を考えた上で、現役に固執せずに身を引くことも多い。個人的な衰えだけで引退を決断することは、ほとんどないといっていい。

 そういうことを考えると、最年長勝利記録を更新した中日の山本昌は本当に幸せだよな。球団、監督も全員が理解して、彼にプレーする場所を与えなければなし得ない。そして、本人の「気持ち」だな。2軍でずっと登板機会を待ち続ける忍耐力もなければ、記録は生まれなかった。これから彼が何を目指すのか。そして球団はどう対応するのか。注目してみたいと思う。

 ただ、引き際を自分で判断できる選手は幸せだよ。志半ばで肩たたきされる選手のほうが圧倒的に多い。優勝争いの裏で、編成担当は戦力外の選手の見極めを行っている。

週刊朝日  2014年9月26日号

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東尾修

東尾修

東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝。

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