会津藩9代目藩主・松平容保の子孫で、現在は徳川宗家第18代当主の徳川恒孝(つねなり)氏が徳川家の跡取りになった経緯についてこう語る。

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 昭和15年に生まれた私の記憶は、疎開先の御殿場から始まっています。B29が悠々と真上を飛んでいました。富士山を目印にやって来て、右旋回して東京へ向かっていたのです。晴れていると、きれいな飛行機雲が出ていました。

 戦争が終わると、幸い焼けなかった渋谷区松濤の屋敷に戻りました。会津の松平家ですから、女中さんたちも、屋根裏みたいなところに住んでいた書生さんたちもみんな会津人。書生さんたちは、まき割りや外の掃除をする代わりに3食付きで大学に通う学生さんです。目の覚めるような会津弁でした(笑)。今でも東北の訛りを持った人と話をすると、ものすごく懐かしい気持ちになります。

 松濤の屋敷は、都知事公邸にどうしても必要とのことで、都に譲渡しました。松平家は、ここから転々とすることになります。

 松濤の屋敷を出た松平家は、目黒区洗足に移ります。焼け野原に運良く空襲を逃れた一角があり、その中で大きめの家でした。

 しかし、ここでの生活も3年ほど。祖父の恒雄が亡くなったのです。相続税のこともあり、小さな家を探しました。結局、徳川家の祖父・家正が移り住んでいた家の近く、歩いて1分くらいの家に落ち着きました。

 家正は、大相撲を見に行くのが好きでした。相撲好きと言えば曽祖父の家達(いえさと)もそう。15日間ほとんど毎日、国技館へ行くほどだったようです。家達が持っていた枡席は、家督と同じく家正、そして私へと受け継がれています。孫はたくさんいるのですが、家正はなぜか私をよく大相撲に連れていってくれました。大好きな清水川や三根山に声をかけるのをニコニコと見ている良いおじいちゃまだな、と思っておりましたら、あるときこう言われました。

「恒孝、うちに来るかい?」

 徳川家の跡取りである母の兄は早くに亡くなっていました。私は松平家の次男ですから、徳川家の跡取りとして養子にならないか、ということです。おじいちゃまにすっかりなついていたものですから、「うん、いいよ」と言ってしまった。こんな大変な家だとは、まるで思っていませんでしたから。お相撲につられて養子にきたようなものでしょうか(笑)。

週刊朝日  2014年3月21日号