それなのに、「おっぱい見せて」と言えばおっぱいを見ることができるとでも思ったのだろうか。怒りを超えて脱力するしかないし、言われた女子大生は、「私がバカで隙があるから辱められた」と自らを責めている。まるで痴漢や強姦被害にあった女性が抱える自責の念と同じだ。なんと罪深い話。

 遊んでいない男はだめだ。キャバクラで「おっぱい見せて」と言ったとすれば、場を盛り上げる楽しい客だが、京都のお茶屋さんで一見さんに毛が生えたほどのお客様が同様の発言をして楽しむことができるかといえば違う。勤務する社内で部下に向かって「おっぱい見せて」は論外だ。ふだん、セクハラには忌むべきセクハラと、コミュニケーションとして寛容すべきセクハラがあり、この2種を同一視してはならないと論じる私ですら、許すことはできない。遊んでいない男性というのは、「場」を読むことができないんだなあ。

 グローバリストを自任している62歳には、明治の時代にドイツから女性が追いかけてきた森鴎外の作品でも読んでほしい。

※週刊朝日 2012年3月16日号