ここで今日僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できない物事についてです。

それはたとえば倫理であり、規範です。それらは形を持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった6基の原子炉のうち3基は、修復されないまま、いまも周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が海に流されています。風がそれを広範囲にばらまきます。

 10万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。ペットや家畜も打ち捨てられています。そこに住んでいた人々はひょっとしたらもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなるかもしれません。

 どうしてこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因は明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことがあり、安全基準の見直しが求められていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。どうしてかと言うと、何百年に一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するはずの政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節があります。
 
《同時に、そのような歪んだ構造を黙認してきた私たち自身も糾弾されなくてはならないという。》
 
 ご存じのように、私たち日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市が、アメリカ軍の爆撃機によって原爆を投下され、20万を超える人命が失われました。そして生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていきました。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものか、私たちはそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

〈安らかに眠って下さい 過ちは繰返(くりかえ)しませぬから〉

 素晴らしい言葉です。私たちは被害者であると同時に、加害者でもあるということを、それは意味しています。核という圧倒的な力の脅威の前では、私たち全員が被害者ですし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、私たちはすべて加害者でもあります。

《だが、日本人は2度目の核の被害にあってしまった(被害を起こしてしまった)。なぜそのようなことになったのか。その理由を村上氏は「効率」だと断言する。》
 
 原子炉は効率のよい発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、特にオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めてきました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

◆「効率」で進めた論理のすり替え◆

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30%が原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、この地震の多い、狭く混み合った日本が、世界で3番目に原子炉の多い国になっていたのです。

 まず既成事実が作られました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、いまや地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったんです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、私たち日本人の倫理と規範の敗北でもありました。

《『村上春樹はくせになる』(朝日新書)などの著者で文芸評論家の清水良典氏は、このくだりをこう評する。
「これまでの村上氏は、大江健三郎氏などの戦後知識人とは一線を画したところがあったのですが、今回はそこに踏み込んだように思います。福島の事故を受けて、原発や核の問題についてもっと発言するべきだったと気づき、それが自分に対する強い怒り、自己反省になっているのでしょう」》
 
 私たち日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の個人的な意見です。

 私たちは技術力を総動員し、叡智(えいち)を結集し、社会資本をつぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求するべきだったんです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、私たちの集合的責任の取り方となったはずです。それはまた我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を私たちは見失ってしまいました。

 (中略)

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは私たち全員の仕事になります。

 それは素朴で黙々とした、忍耐力を必要とする作業になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔(ま)くように、みんなが力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々、職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げていかなくてはなりません。それは私たち全員が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人を励ます律動を持つ物語であるはずです。

《09年に村上氏が受賞したエルサレム賞の授賞式でのスピーチ「壁と卵」。そのとき村上氏は、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ侵攻を批判し、これまであまり語ることのなかった自分の父親の話をした。
 今回のスピーチでも父性の影響が垣間見られると清水氏は指摘する。
「日本人の伝統や精神性を重んじ、肯定しているところは、大江氏などのリベラリストとはまた違うところです。村上氏の父は僧侶であり、国語教師でもあった。そういう環境で育った影響が出ているように思います」
 村上氏は、スピーチの最後をこう締めくくった。》
 
 カタルーニャの人々がこれまでの長い歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、独自の言語と文化を護ってきたことを僕は知っています。私たちのあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、私たちが等しく「非現実的な夢想家」となることができたら、そしてこの世界に共通した新しい価値観を打ち立てていくことができたら、どんなに素晴らしいだろうと思います。それこそが近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、ヒューマニティーの再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。

 私たちは夢を見ることを恐れてはなりません。理想を抱くことを恐れてもなりません。そして私たちの足取りを、「便宜」や「効率」といった名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。私たちは力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」になるのです。 (構成 本誌・田中裕康)


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