「朝日ジャーナル」(1992年休刊)は、88年4月から90年3月の丸2年にわたり「今週のゲンパツ.」という連載記事を掲載し、原発の問題を多角的に報じていた。
 88年4月は、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故から2年が経とうとしていた時期に当たる。また、同年2月に行われた四国電力・伊方原発での出力調整試験をめぐり、「チェルノブイリ事故の再来を招きかねない」として前年暮れから激しい抗議運動が行われていた。

〈長くくすぶり続けていた原発に対する不安が、一挙に顕在化している。万一大事故が起こったら、という仮定の話だけでなく、廃棄物処理、エネルギー・コストなど、多方面から光をあてつつこの問題を考えてゆきたい〉

 88年4月1日号の連載第1回の前文にはこう書かれている。そして、「『浜岡1号緊急停止せず』のなぜだ!」と題して、同年2月に起きた中部電力・浜岡原発1号機の再循環ポンプ停止事故を検証している。この事故では原子炉が緊急停止せず、12時間も稼働を続けたことなどが問題となっていた。
 筆者の小村浩夫・静岡大教授(肩書は掲載当時。以下同)は、

〈原発についていつもいわれてきた「多重防護だから安全」などという話は簡単につぶされてしまったわけで、原発には重大な設計ミスが本来あることになってしまった〉

 と指摘している。同じ号で中村謙・朝日ジャーナル記者は「なにがどう危ないかが見えない危なさ」のタイトルで記事を執筆。事故当時の原子炉の様子を住民側に明らかにしない中部電力の姿勢を問題視した。

〈知らしむべからずの電力の体質自体が最も危ないのだとはいえないだろうか〉

 88年6月、日立製作所の子会社で原子炉の設計に携わっていた田中三彦氏は、東京電力・福島第一原発4号機の圧力容器製造の最終工程で、許容範囲を超えるゆがみが発生し、修正作業が行われていた事実を原発シンポジウムで明らかにした。
 これを受けた88年7月15日号では、「福島第一4号炉に硬くてもろーい整形手術『黙ってられない』と元原子炉設計者が告白」のタイトルで田中氏の告白を紹介している。

〈4号炉は"普通とはちがう"ことをまず知ってもらい、後遺症の程度を専門家に委ねたいと思った。でも、国や電力会社は騒ぎを鎮めることにだけ注意を向けている〉

 4号機は3・11の巨大地震が起きたとき、定期検査のため運転停止中だったが、〈工場内では本気で"つくり直し"も議論されたほどの大きなトラブル〉(田中氏)を抱えたまま長年運転されてきたことになる。そして、3月15日、4号機は水素爆発を起こした。
 田中氏は「朝日ジャーナル 原発と人間」でも、「設計に没頭した日々の中で守った良心と拭いきれなかった不安」と題した記事を執筆。原子炉設計に携わっていた当時を回想している。
 東電・福島第二原発の問題を指摘したのは元原発設計技師でフリージャーナリストの西岡孝彦氏だ。第二原発3号機では89年1月、再循環ポンプが破損し、金属片などが圧力容器の中に侵入する事故が発生した。
「巨大技術が負う危険な宿命/福島原発が壊れるわけ」(89年9月22日号)で西岡氏は、この事故を〈前代未聞の大事故〉とし、最新の設計が自慢だったはずの3号機の事故の原因は〈設計ミスと施工ミス、検査ミス〉と指摘している。
 これに対し、電気事業連合会は〈配管を例にあげますと、一一〇万キロワットクラスでパイプの総延長は一七万メートル、溶接部が三三万カ所もあるんです。厳重な管理をしても、どうしてもいくつかの悪いケースが出てしまいます〉とコメントしている。巨大で複雑なシステムであるため、原発に少々の"不具合"が生じても仕方がないというのだ。
 この事故でのもう一つの問題点は東電が速やかに事故を公表しなかったことだ。西岡氏はこう結論づける。

〈世界一の電力会社と世界有数の原発メーカーが造った日本を代表する原発が壊れ続けても、何の不思議もない。東電のいうように「開かれた原発」が実行され、利害のない第三者に監視されない限り、秘密主義の原発は、これからもますます壊れ続ける〉

◆過去の問題点がフクシマに凝縮◆
「今週のゲンパツ.」最終回は90年3月30日号に掲載された「漂流する"日の丸"プルトニウム」。原発の稼働によって生み出される使用済み核燃料の再処理問題に焦点を当てたものだ。
 当時、日本は使用済み核燃料の再処理を海外に委託。取り出されたプルトニウムを持ち帰り、高速増殖炉(プルトニウムを燃料として、燃やした以上に新たなプルトニウムを増殖する原子炉)などに利用する計画だった。ただ、プルトニウムは核兵器製造に転用できるため、長距離の海上輸送には「核ジャック」などの危険がつきまとっていた。
 児玉哲明・朝日ジャーナル記者は記事を次のように締めくくっている。
〈非核三原則の国が、核兵器材料の保有大国になり、"海のチェルノブイリ"を起こしかねない国として、国際的注視を浴びる日は、そう遠い将来ではないかも知れない〉

 "海のチェルノブイリ"は起こらなかった。しかし、福島原発事故によって海洋汚染を起こしている日本は今まさに"国際的注視"の的だ。当時の記事を読むと、そのなかで指摘された原発や電力会社の問題点が、今回の福島原発事故に凝縮されているかのように思える。
「今週のゲンパツ.」に、海外の原発事情などについて複数回にわたって記事を執筆し、緊急増刊号でも「脱・国際『原子力村』のすすめ」を執筆したジャーナリストの鈴木真奈美さんがいう。

「88年ごろはチェルノブイリ事故の問題点が国際的にもようやく整理されてきた時期です。原発に関して地元、裁判、科学者、海外など、いろいろな視点から掘り下げ、具体的な問題提起をしました。それを反原発グループの機関紙ではなく、ジャーナルという商業誌でやったことに大きな意義があったと思います」

 それから約20年が経った。

「日本の原子力政策、原子力産業が海外に打って出ようという大きな『転換期』を迎えている中で今回の事故が起きました。日本の原子力発電とは何だったのか、あらためて社会全体に問いかける必要があるのではないでしょうか」(鈴木さん)

 地震列島の上に54基もの原発を抱える現実に、われわれはどう向き合えばいいのだろうか。「朝日ジャーナル 原発と人間」はその命題に取り組んだものである。

週刊朝日