「移籍して公式戦は4試合目の出場だというのに、すっかり『本田のチーム』になっていたんです。トップ下の本田に球を集めて、攻撃の起点になっている。外国人にはボールも回さないことが普通にある厳しい世界で、練習から相当に頑張って、選手たちの信頼を得たんだなと思いました」

 CSKAモスクワのスルツキ監督も、本田を高く評価している。W杯前、チームのサイトでのインタビューに、こう答えた。

「本田がワールドカップの新星として注目されるようになる予感がする。ワールドカップの雰囲気が彼に新たな感情の高まりとエネルギーを吹き込むだろう」

 名古屋時代から身体能力の高さには定評があった。大叔父の本田大三郎は64年東京五輪のカヌー選手。いとこのプロレスラー・本田多聞は、84年ロサンゼルスから3大会連続五輪のレスリングに出場。そんな恵まれた血筋の才能が、海外での厳しい競争で磨かれたわけだが、飛躍のきっかけがあったと内海記者は言う。

「VVVフェンロの2年目、08~09年シーズンで明らかに変わった。得点が大幅に増えたのです」

 MFとしてFWにパスを出す役回りだったため、名古屋で最も多く得点した年は06年の8得点(34試合)、VVVフェンロの1年目も14試合で2得点だったが、2年目は2部に落ちたとはいえ16得点(37試合)も挙げたのだ。この変化について、本田はこんな説明をしている。

「2部に残ってプレーしている外国人は、助っ人として結果を出さなきゃいけない。サッカーの結果とは突き詰めるとゴールだ。いくらいいパスを出しても、結果は残らない。そんなふうに自分の意識が変わった」

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