平安時代は、文学に限れば女性の活躍が世界でも奇跡的と言えるほど活発でした。それは平安歌人を多く含む「百人一首」にも反映しています。ほぼ時代順に並べられた「百人一首」の和歌で、特に平安中頃の和歌が続く53番の道綱母から62番の清少納言までは、55番の藤原公任以外の9首すべてが女性の和歌で、最も女性が集中しています。今回は前半の4首をご紹介します。

三月八日は、「国際女性デー」でした。現在の世界各国の中で日本の女性の社会的活躍度は特に低いとされていますが、和歌の世界ではそんなことはありません。ここでは、特に女性サイドから見てみましょう。

貴顕の新妻の和歌

〈嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る〉

〈忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな〉

上から順に、53番の道綱母の歌と、54番の儀同三司母の歌です。

まず道綱母の歌です。三番目の勅撰集「拾遺和歌集」の恋四が出典です。詞書には、夫がやって来たのに門をなかなか開けなかったら文句を言ってきたので詠んでやったとあります。あなたが来ず、泣きながら一人で寝る夜に、夜明けまでどれほど長く思うかわかりますか、と夫を責めている内容です。この時代は夫婦でも家が別のままで、夫が妻の家を訪れることで夫婦関係が成り立つという当時の風俗を背景にした歌です。夫は、一条天皇の摂政・関白を務め、藤原氏全盛への道を開いた藤原兼家で、作者はその妻です。

この歌は、道綱母が著した日記文学の「蜻蛉日記」にもあります。天暦八(954)年秋に結婚して、ほぼ1年後のある暁方に別の愛人宅から来た夫を作者は拒み、そのまま愛人宅に戻った夫に「うつろひたる菊」に添えて送った歌とされます。夫は、なるほど冬の夜が明けないのではなく門が開かないのも辛かったよと、共感とも詫びともつかない返歌を詠んでいます。

次の儀同三司母の歌は、「新古今和歌集」恋三が出典で、詞書によると、結婚後間もないころの歌とされます。決して私を忘れることなどないという、あなたの言葉の将来まで保証することは難しいので、幸せな今日を最後とする命でありたいですと詠んでいます。喜びが不安と隣り合わせの新妻の繊細な思いが表されています。夫は藤原兼家の長男の道隆ですが、道綱母とは別の時姫という妻が産んだ、道綱の異母兄です。儀同三司母と言うのは、彼女の長男・伊周(これちか)が准大臣とされたことに拠ります。「儀(儀礼の格式)が、三司(太政大臣・左右大臣)に同じ」という意味です。

儀同三司母の実名は高階貴子で、円融天皇の掌侍(ないしのじょう、女官の三等官)で女房名は高内侍(こうのないし)と言われ、当時の女性には希な漢詩に優れていた人とされています。一条天皇の皇后・定子の母でしたが、夫の中関白・道隆の死後に権勢が弟の道長に移り、悲運の中で夫の死の翌年に没します。

二人の女性のうち、道綱母は夫婦仲のままならないことを「蜻蛉日記」に著していますが、どちらも摂政関白として当代一の貴顕である藤原兼家・道隆という父子の妻です。そうした二人の結婚間もないころを映し出す二首です。

さて、出典となる勅撰集はそれぞれ別ですが、ともに入っている作品として後鳥羽院編による「時代不同歌合」があります。それが、この二首への注目を誘ったとも思えますが、彼女たちとほぼ同時代で随一の著名歌人と言える藤原公任が選んだ「前十五番歌合」では、この二首が十二番の左右の歌として並んでいます。「百人一首」はこの歌合にあるものをそのまま抜き出したのではないかとも思われます。しかも、これら53番・54番に続く55番の歌の作者が公任だということも、内容は名滝を詠むもので直接関係ありませんが、偶然ではない藤原定家の意図的な選歌配列ではないかと思わせられます。

逢うことを詠む和歌

〈あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな〉

〈めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かげ〉

次は、56番の和泉式部の歌と、57番の紫式部の歌です。

まず和泉式部の歌です。四番目の勅撰集「後拾遺和歌集」恋三が出典で、常にないほど体調が悪く、死を間近に感じた頃に人に送った歌とされます。いなくなってしまう此の世の、あの世での思い出として、あなたに最後にもう一回だけ逢いたいのです、と詠んでいます。この歌の作者和泉式部は、恋多き女性歌人として多くの優れた恋歌を詠んでいます。その一端を示せば、

〈暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月〉

〈物を思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る〉

などがあります。前者は愛欲の闇に陥る身の救いを山の端から射す月の光に求めたもの、後者は沢の上を浮遊する蛍の光を、失った恋への苦しい思いの末に身から抜け出た我が魂かと見たものです。

これらに比べて「百人一首」に入った歌は格別に強い印象を与える作品ではありませんが、和泉式部が命の最後に恋人と会いたいと詠んだ、つまり辞世の歌であって、同時に究極の恋歌だと理解することを想定して選ばれたのではないかと想像されます。

最後は紫式部の歌です。「新古今和歌集」雑上が出典です。詞書には、幼友達に何年も経った後に偶々会ったが、あっけないことに、七月十日の頃の夜の早く沈む月に競って帰ってしまったので詠んだ、とあります。何年かぶりに久しぶりに会って、昔のままかとわかる前に、ちょうど見ていて間もなく雲に隠れてしまった夜更けの月光のように別れたことよ、というものです。

この歌は、「紫式部集」の冒頭にあって、初秋の「七月」が初冬の「十月」となっている点だけ異なっています。さて、この和歌を、世界遺産である「源氏物語」という壮大な物語の作者である紫式部が詠んだ和歌の中から選ばれた一首と考えるといかがでしょう。和歌の状況も内容も、紛れもない日常の断片でしかないと思えます。紫式部らしさと言うなら、

〈数ならぬ 心に身をば 任せねど 身にしたがふは 心なりけり〉

〈年暮れて わが世ふけゆく 風の音に 心のうちの すさまじきかな〉

のような作を挙げる方が一般的でしょうか。前者は、「紫式部集」に「身を思はずなりと嘆く……」と詞書があるので、我が身が心、あるいは望みに合わないという嘆きを詠んでいるとわかります。筆者なりの理解で言い換えれば、我が身は心のままにならないくせに、身の置かれた状況に心が馴染んでしまうのが嫌だと主張しているのだと理解しました。かなりわかりにくい内容で、一人の人間の身と心を別にあるものとして、その関係を洞察し自分というものを深く考えている和歌だと言えます。

後者は「紫式部日記」にある和歌で、年が暮れると一歳老けるが、その時に吹く寒風の音で心の底まで冷えたと、老いを自覚しての荒涼とした思いを詠んでいます。「源氏物語」という長大な物語世界に繰り広げられる、様々な人間模様を操る広く深い人間理解の一端が、こうした和歌にも表れていると思われます。

これらと「百人一首」の紫式部詠を合わせて見た時、「めぐり逢ひて……」は、思索や叙情の深さという面とは異なる、若く素朴で純情な感性が魅力的に思えます。こうした歌もあるのは物語作者としての紫式部の感性の幅広さを表していると言うべきかもしれません。また、紫式部自身が編んだともされる家集の冒頭に位置することで注目された可能性もあります。

和泉式部の命の最後に逢いたいという恋歌とは違う、若い女性の同性の旧友に逢って親しみ、なおそれを追い求める思いを、夜更けてはかなく消える月に託していると読めます。

平安女性作家の中で頂点とも言える、和歌における和泉式部と物語における紫式部の二首について紹介しました。ともに大事な人に会うことを詠んでいますが、まさにそれぞれ個性的です。

《参照文献》

百人一首研究必携 吉海直人 編(桜楓社)

紫式部集全釈 笹川博司 著(風間書房)

コレクション日本歌人選-紫式部 植田恭代 著(笠間書院)

蜻蛉日記ー新編日本古典文学全集(小学館)

紫式部の歌碑(廬山寺)
紫式部の歌碑(廬山寺)