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人生百年時代、茂吉忌に歳の重ね方を考える

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蔵王の樹氷

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上山市街地の全景

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つばくらめ(ツバメ)

つばくらめ(ツバメ)

冬の最上川

冬の最上川

残雪の蔵王と水田

残雪の蔵王と水田

さる2月25日は茂吉忌でした。斎藤茂吉は1882(明治15)年に生まれ、精神科医として、そしてアララギ派の中心人物の歌人として大活躍。31歳で第一歌集『赤光』を刊行、芥川龍之介は「詩歌への眼を開かれた」と讃辞を送りました。研究・評論の業績も多く、大著『柿本人麿』は学士院賞を受賞。精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫のお父さんでもあります。
茂吉は1953(昭和28)年に70歳で亡くなるまで、生涯に全17冊の歌集を発表し、15,000首を超える歌を詠みました。短歌の写生理論として「実相観入」を唱え、自らの心象を具象化し続けた姿勢を、最晩年にまで貫きました。そんな茂吉の人生は、山あり谷あり。自らの老いを写実した最後の歌集『つきかげ』まで、時に浮かぶユーモア精神も合わせて追ってみます。

東北訛りに苦労した学生時代

・ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕(やまこ)殺ししその日おもほゆ
茂吉は、山形県南村山郡(現上山市)金瓶(かなかめ)の、農家の三男として生まれました。蔵王を仰ぐ金瓶は、仏教信仰に厚い養蚕の村。茂吉は高等小学校の卒業が迫る頃には、中学進学は難しく、将来は絵描きか寺入りか養蚕業かと考えていたようです。上記の『赤光』からの歌は、その頃の心情なのかも知れません。
ところが1896(明29)年の14歳の時、茂吉の運命は急転。同郷出身の親戚で、浅草で医院を開業していた斎藤紀一のもとに寄寓し、開成中学を経て一高に進むことになります。後継者候補として同郷の優秀な少年を探していた紀一の元に、茂吉が紹介されたのです。
一高理科、いまの東大医学部学生となった茂吉ですが、在学中の1905(明治38)年、正岡子規の『竹の里歌』に感動。作歌にのめり込みますが夢中になりすぎ、卒業時には、ビリに近い成績になったそうです。本人は、学生時代は東北訛りで皆に笑われたと回想しているのですが、旧友たちによると、素朴な茂吉はむしろ人気者だったのです。

生母への挽歌「死にたまふ母」

精神医学を専攻した茂吉は、斎藤家に婿養子として入籍するとともに、伊藤左千夫に入門。『赤光』を発表し、脚光を浴びます。『赤光』という名は、茂吉が阿弥陀経から採ったもの。生母いくとの死別などを万葉調の表現で描写しつつ、生への愛惜をうたいあげた歌集です。茂吉は「短歌のような体の抒情詩を大っぴらにするということは、切腹面相を見せるようなものかもしれない」と後に語っています。一部をご紹介します。

・白き華しろくかがやき赤き華赤き光を放ちゐるところ
・みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
・死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
・のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり
・星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
・蔵王山に斑(はだ)ら雪かもかがやくと夕さりくれば岨(そば)ゆきにけり

斎藤紀一の二女・輝子と結婚した茂吉は、長崎医専教授を経て1921(大正10)年、39歳で渡欧留学。1924(大正13)年には東京帝大より医学博士の学位も受けましたが、帰国途上に養父創設の青山脳病院全焼の報が届きます。帰国後の茂吉は、火災保険が切れていた病院の再建に奔走。4人の子宝に恵まれ、『アララギ』の編集発行人と、再建した青山脳病院の院長を勤めます。
しかし昭和に入り戦争の気配が強まる中、養父紀一や親友・歌友たちとの死別、妻のスキャンダルによる別居など、茂吉には心痛が続きます。自身も歌会で知り合った永井ふさ子との恋愛もありましたが、柿本人麿研究に磨きをかけ、『柿本人麿』を上梓。万葉の歌について、理論的な体系形成を成し遂げました。

目つむれば最上の波や茂吉の忌

1945(昭20)年3月の東京大空襲ののち、64歳の茂吉はふるさとの金瓶に疎開。その収穫として歌集『小園』『白き山』など、晩年の傑作を詠み続けました。戦後は東京に戻り、大家族との穏やかな生活を送ります。気難しくも子煩悩だった茂吉は、孫たちもたいへん可愛がったといいます。文化勲章を受章したのち、1953(昭28)年2月25日、心臓ぜんそくによって、茂吉は70歳の生涯を閉じました。
晩年の作品から、一部をご紹介します。

・鈍痛のごとき内在を感じたるけふの日頃をいかに遣らはむ
・この雪の中にこもれる村々にたたかひの世のうづくがごとし
・最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
・円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ
・おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震(なゐ)ふるふころ
・梅の花うすくれなゐにひろがりしその中心(なかど)にてもの栄(は)ゆるらし
・いかづちのとどろくなかにかがよひて黄なる光のただならぬはや

茂吉の歌には、現代の私たちにもストレートに馴染む普遍性があります。奥深い万葉への心情を、知識ではなく共感として感じることができるのです。そして何よりも、婿養子、病院長、精神科医として奮闘する中で、膨大な歌を詠み、短歌や万葉研究や随筆にも健筆をふるった茂吉。偉大な歌人としての業績を残しましたが、晩年、老いた己の描写や孫への思い、生活の観察などを日々記す姿は、枯れてはいますが瑞々しくユーモラスです。
亡くなったのは70歳でしたが、茂吉の充実した人生は、人生百年時代のお手本にもなるのではないでしょうか。次男・北杜夫による小説『楡家の人びと』は、斎藤家がモデル。ある精神科医の一族の、3代にわたる歴史と没落を描いており、大正から昭和の時代が浮かび上がる名作です。多様なフィルターによって、短歌や万葉、そして茂吉や昭和の時代を眺め直すこともまた、人生の収穫期のお楽しみと言えるでしょう。最後に茂吉忌の一句を。

・目つむれば最上の波や茂吉の忌
〈森田峠〉


【参考文献】
『日本の詩歌 8 斎藤茂吉』(中央公論社)
品田 悦一(著) 『斎藤茂吉 あかあかと一本の道とほりたり』(ミネルヴァ書房)
『新日本大歳時記 カラー版 春』(講談社)


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