『Monkee Business:The Revolutionary Made-For-TV Band』by Eric Lefcowitz
『Monkee Business:The Revolutionary Made-For-TV Band』by Eric Lefcowitz

■モンキーズは「つくられたグループ」だったのか?

 1964年2月9日の夜、期待は熱狂に達していた。

 およそ7300万人の視聴者が、アメリカでのデビューとなるビートルズのライヴ・パフォーマンスを見逃すまいと、『エド・サリヴァン・ショー』にチャンネルを合わせた。カメラが、下あごの張ったヴェテラン・ホストから、《オール・マイ・ラヴィング》を演奏するポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターにアングルを切りかえたとき、音楽の新時代が幕を開けた。

 カレッジの学生で野心を抱くフォーク・ミュージシャン、マイケル・ネスミスは、のちのモンキーズのメンバーと同様に、そのパフォーマンスを見つめていた。そして「僕も例に漏れず、のぼせ上がった」と回想している。ネスミスは、その3年と1日後に、彼自身がアビー・ロード・スタジオに立ち、ビートルズの傑作《ア・デイ・イン・ザ・ライフ》のレコーディングを見守るポップ・スターになっているとは夢にも思わなかった。

 エド・サリヴァン・シアターからダウンタウンに向うと、もう一人の野心的なフォーク・パフォーマーが、グリニッチ・ヴィレッジのクラブで演奏し、客のチップを集めていた。そうしたフォーク・パフォーマーは、ボブ・ディランの出現によって、掃いて捨てるほどいた。『エド・サリヴァン・ショー』の派手な世界は、地理的に言えば、地下鉄で数駅の距離にすぎなかった。だがピーター・トークのようなフォークの純粋主義者にとっては、哲学的な意味で、無限に等しい距離感があった。トークはわずか数年後に、ジョージ・ハリスンの映画『ワンダーウォール』のサウンドトラックで、5弦バンジョーをかき鳴らすことになった。

 ミッキー・ドレンツは、フォークへの志向がまったくなかった。暇があれば、ミッシング・リンクスという5人編成のロックンロール・カヴァー・バンドのメンバーとして、ポマードで髪をリーゼントに決め、リード・ヴォーカルをとっていた。ドレンツは、ファブ・フォー(ビートルズの愛称)のパフォーマンスを見た後、ポマードを捨て、アメリカの多くの若者と同じように、ビートル・ヘアーにした。彼は10年後、ハリウッド・ヴァンパイアーズの異名をもつロック・スターの一団と交遊を深めていた。ヴァンパイアーズの中心人物には、ジョン・レノンとリンゴ・スターも含まれた。

 最後のモンキーは、その夜、エド・サリヴァン・シアターのステージに立っていた。小柄で陽気な19歳のデイヴィー・ジョーンズは、ビートルズの歴史的なパフォーマンスの合間に、ブロードウェイのヒット・ミュージカル『オリヴァー!』のキャストに加わり、《アイド・ドゥー・エニシング》を演じていた。同じイギリス人の輝きの前に影を薄くしたジョーンズは、羨望と畏敬を交錯させつつ、舞台の袖でパフォーマンスを見つめた。彼はのちに、「こんな風になりたい、かっこいいと思った」とふり返っている。

 アメリカの若いミュージシャンは、一様に頭を捻った。どうすればビートルズに近づけるのだろう? そして、世界的な人気者となったリヴァプール人のイメージやサウンドをコピーしたバンドが、一夜にして地下室やガレージから現われはじめた。だがグループのヴィジョンである、音楽的な可能性を共有するバンドは見当たらなかった。

 ビートルズ現象は、世界を席捲した。『エド・サリヴァン・ショー』のわずか6か月後、グループ初の長編映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』(邦題『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』)が公開された。リチャード・レスターが監督を務め、泡のように実体のないポップ現象の内側の特殊な日常をシュールに描写したこの映画は、一大センセーションを巻き起こし、同時に、新進気鋭のフィルム製作者にも大きな影響を与えた。2人のモンキーズの生みの親、ボブ・ラフェルソンとバート・シュナイダーも例外ではなかった。

 ボブ・ラフェルソンが暖めていた企画、4人の陽気なミュージシャンの“ドタバタ”を描くテレビのレギュラー番組は、『ア・ハード・デイズ・ナイト』の恩恵を受け、突然ネットワーク・テレビジョンに売れる大チャンスを迎えた。(第1章より)