『MR.TAMBOURINE MAN』THE BYRDS
『MR.TAMBOURINE MAN』THE BYRDS

 ロサンゼルス国際空港の南東に位置するホウソーンで結成されたビーチ・ボーイズは、1962年から63年にかけて7曲のトップ40ヒット(アメリカでの一般的なヒットの指標。ビルボード誌のシングル・チャートで40位圏内まで入ったことを意味する)を放っている。この間にイギリスでは、ビートルズとローリング・ストーンズが相次いでデビュー。ブライアン・ウィルソンたちが《アイ・ゲット・アラウンド》で初の全米ナンバー・ワンを獲得した64年には、ビートルズのアメリカ進出という大きな事件もあった。ミネソタからニューヨークに向かい、グリニッジヴィレッジで経験を積んだボブ・ディランが、「フォークの旗手」として注目を集めるなか、すでに新たな一歩を踏み出そうとしていたことも忘れられない。時代が、大きく動きはじめていたのだ。

 ビーチ・ボーイズにつづいて、ロサンゼルスの音楽シーンへと多くの若者を惹きつけることとなったザ・バーズは、こういったダイナミックな動きを受けて誕生したバンドである。BYRDSという綴りも、間違いなく、BEATLESを意識したものだろう。また、中心人物のロジャー・マッギンと、メイン・ソングライターの一人だったジーン・クラーク、のちにCSNで大きな成功を収めるデイヴィッド・クロスビーの3人は、いずれも、60年前後のフォーク・ムーヴメントをその出発点としていた。

 注目すべきはマッギンとクラークが中西部の出身であったこと。クロスビーはLAの出身だが、ニューヨークでの活動を模索したこともあるらしい。ビーチ・ボーイズはいわゆるローカル・バンドだったが、ザ・バーズ以降、ロサンゼルスの音楽は、なにかを目指してこの太平洋岸の都市にやって来た人たちによって、急速に活気を帯びていくこととなるのだ。

 バンド結成のきっかけは、1964年、ウェスト・ハリウッドのクラブ、ザ・トルバドールでのマッギンとクラークの出会いだった。サンタモニカ・ブールヴァードとドヒニー・ドライヴの交差点に建つこのクラブに関しては、LA音楽の聖地としてあらためて詳しく書くが、やがて一緒に歌うようになった彼らにクロスビーも加わり、さらにドラムスにマイケル・クラーク、ベースにクリス・ヒルマンを迎え、ザ・バーズが誕生している。

 この年の秋、いくつかの幸運も重なって大手のコロムビアと契約を交わした彼らは、未発表の段階で聴く機会を得ていたディランの《ミスター・タンブリン・マン》などのレコーディングを翌年の年明けから開始し、同タイトルのアルバムを6月に発表している。しばしば「フォーク・ロック時代の扉を開いた名カヴァー」と紹介されるバーズ版《ミスター・タンブリン・マン》は全米チャートの1位まで上昇し、彼らは一躍トップ・アーティストの地位を獲得。北米各地に暮らす音楽好きの若者たちの憧れの存在となったのだった。

 ただし、コロムビア側のプロデューサーの意向もあり、《ミスター・タンブリン・マン》とそのB面にもなった《アイ・ニュー・アイド・ウォント・ユー》の演奏は、リオン・ラッセルやラリー・ネクテルなど実力派のスタジオ・ミュージシャンによって行なわれていた。バンドから参加できたのは、印象的な12弦ギターを弾くマッギンのみ。過剰な期待がそういう流れを生んでしまったのかもしれないが、それ以外のアルバム収録曲はきちんとメンバーたちが演奏しているので、バーズ版《ミスター・タンブリン・マン》を聴くたびに、その素晴らしい音に引き込まれつつ、つい「なぜそんなことを?」と思ってしまう。 [次回1/27(水)更新予定]

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大友博

大友博

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

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