『NO REASON TO CRY』ERIC CLAPTON
『NO REASON TO CRY』ERIC CLAPTON

 このweb連載でもすでに何度か触れてきたことだが、エリック・クラプトンは20代前半のころから、ロビー・ロバートソンを中心としたほぼ同世代のグループ、ザ・バンドを強く意識しつづけてきた。衝き動かされてきた、といってもいいだろう。クリーム解散の引き金となったのは、ザ・バンドの最初のアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』だったし、のちに、「彼らは私の人生を変えた」とまで語っている(ボブ・ディラン30周年記念コンサートでの紹介トーク)。メンバーに加えてほしいという想いを抱え、ウッドストックに彼らを訪ねたことすらあったというのだ。

 1974年発表のアルバム『461オーシャン・ブールヴァード』と《アイ・ショット・ザ・シェリフ》のヒットによって、深く暗い闇からの「奇跡の復活」をはたし、リハビリをかねた長期のツアーで完全に自信を取り戻したクラプトンは、このあと、ザ・バンドとの距離を一気に縮めていった。

 75年暮れ、復活第三弾となるアルバムのレコーディングに着手したクラプトンは、プロデュースを、ボブ・ディラン&ザ・バンドの『プラネット・ウェイヴズ』を手がけたロブ・フラボーニに委ねている。サンタモニカのスタジオ、ヴィレッジ・レコーダーズのエンジニアとして数多くの作品を支え、その確かな仕事ぶりで大物のアーティストたちから絶大な信頼を集めていた男だ。

 クラプトンとのプロジェクトがスタートした時期には、ザ・バンドの依頼を受けて、彼らがマリブに建てるスタジオの設計にも取り組んでいた。のちに『南十字星』や『ザ・ラスト・ワルツ』のサウンドトラックを生むこととなるシャングリラ・スタジオだ。

 その話はもちろんクラプトンも知っていたはず。おそらくは、まず、ヴィレッジ・レコーダーズでのセッションで方向性を固め、オープン直後のシャングリラに移って本格的なレコーディングを行う、といった流れで、アルバムは完成に向かっていったようだ。

 76年8月発表のこの作品のタイトルは『ノー・リーズン・トゥ・クライ』。ウィスキーのボトルやグラスがずらりと並べられたジャケット写真は、セッションの楽しさだけではなく、アルコール依存が深刻化していたことも暗に示している。自虐的なジョークでもあったのだろう。

 詳細なクレジットはないが、このアルバムには、クラプトン・バンドのメンバーのほか、ザ・バンドの面々(リャード・マニュエルとリック・ダンコは作曲面でも貢献)、ロン・ウッドらも参加している。ハイライトは、当時、シャングリラの庭に張ったテントで暮らしていたという(!)ディランが提供した《サイン・ラングウィッジ》。クラプトンとディランが絶妙なバランスで声を重ね、ロビー・ロバートソンがトレードマークのピッキング・ハーモニクスを効かせたギターを弾きまくるという、とんでもない曲だ。

 そういった背景もあり、自作曲は少ないが、ぐっと渋さを増したヴォーカルや、オーティス・ラッシュの名曲《ダブル・トラブル》での力強いソロなどからは、明らかに前2作とは異なるものが伝わってくる。80年代から90年代にかけてシェイクスピアズ・シスターの一員として活躍することになるマーシー・レヴィ(マルセラ・デトロイト)が2曲を提供していて、ここでぐっと存在感を増したことも指摘しておこう。[次回1/7(水)更新予定]

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大友博

大友博

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

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