エディ・ヒギンズトリオ『あなたは恋を知らない』
エディ・ヒギンズトリオ『あなたは恋を知らない』
ケニー・ドリュー・トリオ『バイ・リクエスト』
ケニー・ドリュー・トリオ『バイ・リクエスト』

 ちかごろ、CD屋で、エディ・ヒギンズのアルバムを、よく見る。ここしばらく、人気の高かった人だが、それがいっそう加速したのだろうか。そう思ったこともあったが、じっさいにはちがっていた。どうやら、鬼籍にはいってしまったらしい。

 CD屋であふれかえっているのは、追悼セールスであるようだ。亡きヒギンズをしのぼうということで、これまでのアルバムがならべられているのである。

 くりかえすが、売れ筋の人である。ヴィーナス・レコードを代表するピアニストではある。

 没後なのにこんな言い方をするのはなんだが、それほど音楽的にきわだっていない。とりたてておもしろい音づくりには、いどんでこなかった。耳ざわりのいい、ムード・ミュージックのようなピアノ・トリオをてがけた人。ひとことでまとめれば、それで言いつくされてしまうようにも思う。

 私のまわりにいるジャズ好きで、しかしそのCDを買っている者は、すくなくない。仕事につかれた夜は、ワインをのみながら、エディ・ヒギンズで心をやすめている。そんな物言いを、私はしばしば耳にした。

 ただ、たいていのジャズ好きは、そこに自嘲のひびきも、こめていたような気がする。もう、昔みたいに、コルトレーンで魂を高めようとは思わない。アーチー・シェップもセシル・テーラーも、今はつらくひびく。ちかごろは、軟弱にエディ・ヒギンズですよ。とまあ、そんな口吻も、しばしば耳にした。

 言外に、ほんらいの自分は、アヴァンギャルド志向なんだと、におわせる。しかし、人生につかれた今は、不本意だが、エディ・ヒギンズ。私のまわりだけではあるまい。そういうジャズおやじは、けっこう多そうな気がする。

 1960年代末の政治的な高揚期には、自分の魂も、コルトレーンとひびきあった。だが、社会へ身をおき数十年、今の自分に、あの高まりはもどらない。現在は、小金のあるプチ・ブルになっている。年金の心配をする、まもりにはいった人生しか、もう自分の前にはない。そこで、エディ・ヒギンズ。彼のピアノ・トリオは、そんな男たちにも、ささえられている。

 欧米では影のうすくなったピアニストを、日本のレコード会社が、よみがえらせる。ムード音楽にちかづけ、より大衆化したつくりで、復活させる。そんな例は、しかし、ヴィーナス・レコードのエディ・ヒギンズ以外にも、けっこうある。

 その、いちばんいい前例は、なんといってもケニー・ドリューであろう。

 もともとは、アメリカで活躍していたバップのピアニストであった。リバーサイドからだされた三部作が、ジャズ好きには知られている。その意味でのピークは、1960年代初頭まででおわったと、みなせよう。

 1963年からは、ヨーロッパにわたり、コペンハーゲンで活動をつづけ、アメリカにおけるメイン・ストリームからは、しりぞいた。

 そんなドリューに目をつけたのは、日本のMアンドIである。ヨーロッパの旅情で日本人をそそるアルバムが、この会社からはたくさんリリースされた。『パリ北駅着、印象』、『欧州紀行』などである。

 1980年代のジャズおやじは、しかしこういうアルバムを馬鹿にした。あんなのは、ジャズじゃあない。かたちはピアノ・トリオでも、実質はイージーリスニングだ。ポール・モーリアやパーシーフェイスとかわらない。とまあ、そんな調子で、あざけっていたものである。

 今ふりかえれば、まだまだジャズおやじも熱かったのだ。コルトレーンとともにすごした時代は、それほど遠ざかっていない記憶のなかに,はっきりきざみこまれている。だから、ドリューの80年代を、うけいれることができなかった。21世紀のエディ・ヒギンズには、あゆみよれるのに。

 しかし、どうだろう。音楽的にくらべれば、私はMアンドIのドリューに、軍配をあげる。21世紀のヒギンズより、80年代を生きたドリューのほうが好きだ。

 といっても、この比較はピアニストとしての資質に、そうねざしていない。ピアノ・トリオをささえたベーシストから、私は両者をくらべている。ドリューの相方をつとめたニールス・ペデルセンへの評価で、ドリューのトリオを上位においているのだ。

 ケニー・ドリューも、MアンドIの企画を、どこかであほらしいと思っていたかもしれない。しかし、それにのっかれば、ペデルセンの、たぐいまれなベースを、世界へ知らせることもできる。

 そこに晩年のドリューは、音楽的な生きがいを見いだした…。なんの根拠もない。ペデルセンの、圧倒的なピチカートとであった私の妄想である。