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「話題の新刊」に関する記事一覧

韓国窃盗ビジネスを追え
韓国窃盗ビジネスを追え 日本の寺から盗まれ姿を消した重要文化財は500点以上。その一部は韓国で流通しており、中には億単位で闇取引されているケースも少なくないという。韓国在住の日本人ジャーナリストが高麗時代の経典「高麗版大般若経」、仏画「阿弥陀三尊像」の行方を七年かけて追ったのが本書だ。  取材を通して著者が何度も遭遇するのが「日本に盗まれたものを取り戻して何が悪い」という韓国国民の根強い意識。韓国では日本の重要文化財の大半は倭寇や秀吉の朝鮮出兵で持ち去られたと見られており、犯罪に関わる者だけでなく、一般人や警察まで広くその意識を共有する。日本の寺院から消えた重要文化財に極めて似た経典を韓国の大手企業の会長が平然と所有していたり、窃盗犯が国民の間では「日本から美術品を取り戻した英雄扱い」されていることからも明らかだろう。  韓国で日本人というハンデを背負いながらも細い糸をたぐりよせ、犯人にたどりつく過程は読ませるが、同時に古美術品の世界を通しても日本と韓国の終わらない戦後を痛感させられる。
ふたりの微積分
ふたりの微積分 高校の時に取った微積分クラスのジョフリー先生はちょっと風変わりな人だった。「木につながれた山羊がたどる渦巻きの方程式を求めよ」なんて愉快な問題を出し、優秀なかつての教え子をヒーローのごとく語る。数学者となった著者が先生との30年におよぶ文通を通して、二人の交流と人生をたどる異色のエッセー。  互いの様子にはまるでふれず、手紙の話題は数学の問題ばかり。「分岐」「カオス」「無限とリミット」等々、そのエレガントな解法について楽しげに書き送る。手紙とともに進んでいく著者の人生は、不思議なほど数学に重なる。医者か数学者か進路の選択に悩み、結婚生活の破綻と混乱、先生が卒中に倒れて、命に限りがあることに初めて気づく―─。平凡な、だからこそとても人間的な心の軌跡が深い共感をよぶ。  長年の親友でありながら弱さや迷いを見せられずにいた著者は、30年たって、ようやく心の奥を語りあう。二人の会話にじんと胸が熱くなるのは、人を受け入れることが自身の弱さを乗り越えることでもあるからだろう。
結局、どうして面白いのか 「水曜どうでしょう」のしくみ
結局、どうして面白いのか 「水曜どうでしょう」のしくみ 著者は九州大学大学院で教鞭をとる臨床心理学の研究者。本書では、北海道発の人気バラエティ番組「水曜どうでしょう」の内容分析を試みている。同番組は、出演陣2名、制作陣2名、計4名の男たちが行き当たりばったりの旅をするのがウリ。出演陣のやりとりだけでなく、制作陣が普通にしゃべり、フレームインしてくるのも見どころのひとつだ。出演/制作を分けることなく、4人のファンという視聴者も多い。  このユルい番組に、おカタい職業の著者が挑むという組み合わせが面白い。制作陣へのインタビューを通じて明らかにされるのは、番組を作りつつ番組に出てきてしまう彼らの特殊性。タレントによる旅企画の遂行という既定の「物語」の外に「何かある」と感じさせることで、狭苦しいレンタカーに男がすし詰めだったり、車窓の風景がイマイチでも、全く飽きない。そして視聴者が「いるけど見えない、見えないけどいるという霊の立場」で旅に参加し、思い出を共有しているという指摘には、噴き出しながらも納得してしまった。
女子と就活
女子と就活 副題は「20代からの『就・妊・婚』講座」。「結婚・出産は働き方とリンクする」という認識のもと「婚活」という言葉の提唱者である白河桃子と、就職活動関連の著作で知られる常見陽平のコンビが主に20代女子に向け、人生における仕事・結婚・妊娠を講義形式でまとめたものだ。  ハウツー本にも見えるが、狙うところはその対極にある。キーワードは「脱憧れ」。先が不透明な現代、女子の専業主婦・一般職願望が急増する状況を著者らは喝破する。代わりに推奨するのが自分の食いぶちを自分で稼ぐ「自活女子」の道だ。人生を切り開き、仕事と結婚・出産の両立というジレンマにも立ち向かうべく、女子学生をめぐる就活の構造と結婚・妊娠の基礎知識を徹底解説。「三大活動」の現状を俯瞰し、かつ具体的に考えるための情報材料が詰められている。  とかく目先の内定に目が向きがちな就職活動。しかし出産のタイムリミットなど「その先」も視野に入れることで、現在を見る目はより深まるだろう。特に就活前/中の女子学生には一読の価値がある。
人生で少なくとも一度はミラノでしておきたい101の事柄
人生で少なくとも一度はミラノでしておきたい101の事柄 イタリアはミラノに住む人の9割はミラノが嫌いだ、と著者は言う。しかし残りの1割は、ミラノをこよなく愛しており、本書は、著者を含めそんな少数派がオススメする真のミラノ案内だというのだ。  ドゥオモ大聖堂やサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂など、定番の観光スポットも載っているが、ミラノを愛し、知り尽くしているがゆえの、マイナーなスポットの紹介が、やはり何より面白い。  例えば「レンガ工場の住人と自由に語らい合う」と題された項目。ミラノ郊外の、アルベルト・クルティが経営するレンガ工場は5月の第3週の週末だけ工房を一般公開するが、その工房の職人との語らいを楽しもう、と本書は勧める。  あるいは、大人は入場禁止の王宮庭園に、12歳以下の子ども同伴で入場しよう、という。実はその庭園は、むしろ大人を満足させるもので、子どもは不安になってしまうというのだ。  著者独特の視線で語られるミラノは実に興味深い。読めば、いつの間にかこの町を好きになっているはずだ。
ひとの目、驚異の進化
ひとの目、驚異の進化 ヒトの目はなぜ前についているのか、ほかの動物よりもたくさんの色を認識できるのはなぜか。そこには驚異的ともいうべき目の能力が隠されているという。「透視」「未来予見」など4つの超能力に見立て、従来とはまったく異なる視点から視覚のメカニズムを探る画期的研究である。  両目が前についているのは物を立体的に見るためとよく言われるが、実際には片目でも生活にさほど支障はない。両眼視が真に威力を発揮するのは、森のような障害物に囲まれた環境だという。葉や枝で遮られて見えない部分があっても、少し視野のずれたもう片方の目が見えない部分を補う。顔から突き出た鼻が邪魔にならない理由がまさにこれ。顔の両側に目があるパノラマ視は視野こそ広いが、森の中では両眼視のほうが何倍もの視覚情報を得ることができるのだ。  透視だの未来予見だの、言葉は突拍子もないが、著者が用意した視覚実験を試すと、まさしく自分の目がその突拍子もないことをやっているのがわかる。盲点をつく謎解きの連続に思わず興奮させられる。

この人と一緒に考える

菊池先生の「ことばシャワー」の奇跡
菊池先生の「ことばシャワー」の奇跡 著者の菊池氏は北九州市立小倉中央小学校教諭。学級崩壊やいじめは、子どもの「自分に対する自信のなさ」「コミュニケーション力の乏しさ」が原因で、その結果、「クラス内の信頼関係が築けない」と分析する。  菊池教諭はプラスの考え方や行動をうながす言葉をシャワーのように掛け続けることで、児童の聞く力・話す力・自主的な行動力を高めてきた。本書では6年生のクラスが一年間でどのように変化したか、その軌跡と奇跡を関原氏がルポの形でまとめている。  特に素晴らしいのは、日替わりでクラスメートの長所やよいふるまいを見つけあい、帰りの会で発表する取り組み。観察力と判断力が育つという。ほめられた子どもは自信と安心感を得る。周りは真似しようとする。個々の成長が集団の信頼関係と思いやりにつながる。一方、「言葉の力がない人は友達のよさに気付かない。物事を表面的に好きか嫌いか、敵か味方かで振り分ける」と菊池教諭は指摘する。  会社員や職員の研修にも、十分役立つ内容が多い。
江分利満家の崩壊
江分利満家の崩壊 山口瞳ファンにとって、その妻の不安神経症の原因は、気がかりな謎だった。瞳本人が「原因不明」としていたからだ。それは一人息子の著者にとっても謎だったが、癌を患い余命1年を宣告された母は、自らその原因を語りだす。2回の堕胎手術。その際の麻酔薬と、胎児の一部が体内に残っているという確信。最愛の夫が発した言葉の衝撃。しかしファンならば、それらの証言よりも、あの物静かな妻「夏子」が、じつはこれほどエキセントリックで、手のかかるワガママな妻だったことに驚くだろう。そして最大の謎だった、瞳の「一穴主義」の原因が、その妻だったことに呆気にとられるはずだ。  それにしても『江分利満氏の優雅な生活』で、活発な小学生だった「庄助」君が、ここ30年も毎日ホットケーキの朝食しか食べていない、独身の60男に成り果てていたとは──。確かに父が描いた中産階級の核家族「エブリマン」家は崩壊した。サントリーの同僚であった開高健一家とは別の形で。瞳が著者に残した「書くな」の言葉の謎が解けた。
精密立体 ペーパーバイオロジー
精密立体 ペーパーバイオロジー 高校の理科教員である著者が、授業の教材として作り始めたさまざまの精密なペーパークラフトが、型紙付きの本になった。収録された模型は、実にマニアックで、また、生物学において非常に重要なものばかりだ。  例えば、20面体の頭部に6本の足が付いた月着陸船のような形をし、大腸菌に感染するウイルスであるT4ファージ。確かに顕微鏡写真を見るより、実際に作ってみたほうがはるかにその構造が理解できるだろう。さらに、生物学の実験に欠かせないショウジョウバエ、古生代に大繁栄した三葉虫、その三葉虫を捕食し、カンブリア紀の生態ピラミッドの頂点にいたアノマロカリスなどのペーパークラフトも収録されている。特にアノマロカリスの奇妙なデザインは、模型作りへの意欲をそそられる。  生物のみならず、ロバート・フックが細胞を発見した際に使用した自作の顕微鏡や哺乳類の適応放散の立体図、眼球や脳の機能と構造がわかる模型などもあり、楽しみつつ、頭だけでなく手を使って生物学の世界に浸ることができるのだ。
都市は何によってできているのか
都市は何によってできているのか 著者は韓国現代文学を牽引するトップランナーのひとり。韓国でもっとも権威ある文学賞とされる「現代文学賞」を受賞、啓明大学の文芸創作学科で教鞭をとるなど、精力的に活動している。  著者の、日本ではじめての翻訳単行本となる本書には、表題作を含む、八つの短編が収められている。静かで乾いた文体の中に、グロテスクだがどこかユーモラスな言葉がぽんと飛び出してくるのが印象的だ。たとえば「お父さん、ごめんなさい。後でいい棺に納め直してあげるから」と言い、亡父の棺を金槌で破壊しようとする姉に向かって、弟がこともなげに「あんまり強く叩くなよ。親父の顔を叩きそうだ」と言ったり、死を間近に控えた女が、天井の一点を見つめ、うわごとのように「毛深い象。街を歩き回るのね」と微笑まじりに繰り返したり。  物語は死の間近で展開しているのに、恐怖よりも面白さが勝る。文学性とエンタメ性の融合である。ドラマやアイドルだけが韓流の魅力ではないと感じられる一冊だ。
千駄木の漱石
千駄木の漱石 夏目漱石は、日露戦争をはさむ明治36年から39年まで東京・千駄木の借家に暮らした。偶然にもその家は、ライバル森鴎外が住んだ借家でもあった。敷地400坪、家賃は25円(現在なら約25万円)。漱石は生活費のため嫌々帝大と一高で英語教師をしながら、神経衰弱を自らなだめるために、その家を舞台として『吾輩は猫である』を書いた。その1回分の原稿料でパナマ帽を買い、漱石は自慢気にそれをかぶって、千駄木の町を闊歩したという。著者は千駄木生まれの千駄木育ち。「漱石の書いたもので一番好きなのは書簡」というだけに、本書は漱石が友人や弟子に書き送った手紙を織りこみ、当時の漱石一家の暮らしぶりや感情が綴られている。  「今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒かさらずば、20世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候」と、今と変わらぬ世相に悪態をつき、せめて「千駄木で豚狩りをして遊びます」とおどける漱石。なぜ豚?それは単に、家のそばに養豚場があったから。
あのころのデパート
あのころのデパート 昭和4、50年代、デパートは「ハレの日」に着飾って家族で出かける特別な場所だった。大食堂でランチを食べ屋上遊園地で遊ぶ。そんな時代に東京のデパートに勤務していた著者による、古きよきデパートの秘密満載のエッセイ集。  デパートには独特の流儀があり、お辞儀の角度も30、45、90度と細かく分かれている。言葉は必ず「ご」「お」で装飾し、「荷物」は「おてまわり品」、「うち」ではなく「わたくしども」を使う。隠語も様々でトイレや休憩時には符丁を使用。館内BGMもあらかじめ曲が決められていた。全てはお客様に不快な思いをさせないための気遣いで、当時人気の雑誌「暮しの手帖」が何度も取り上げた“お洒落”で贅沢な空間だったのだ。  そのデパートにかつての賑わいが失われたのは、安売り量販店に客足を奪われたから。迷走しているデパートに必要なのは、かつてのきめの細かい心遣いと流通をスマートに整理すること。そして活気に満ちた非日常的空間を作りあげることに未来の百貨店の在り方があると著者は提言する。

特集special feature

    僧侶の歌
    僧侶の歌 60冊にも及ぶ日本の歌人のアンソロジーの中の1冊で、僧侶たちの歌ばかりを集めたユニークな和歌選集である。貴族たちによる勅撰和歌が中心とすれば、僧による歌はその周縁にあるもので、その多様性が魅力だろう。  「山の端のほのめく宵の月影に光もうすく飛ぶ蛍かな」と、ありのままの自然の美しさを詠い、そこにこそ本然があるとした道元禅師、「跳ねば跳ねよ踊れば踊れ春駒の法の道をば知る人ぞ知る」と踊り念仏を鼓舞する一遍上人、「釈迦といふ悪戯者が世に出でて多くの人を惑はするかな」と皮肉る、反骨にして風狂自在の一休和尚など、それぞれの個性と信念が反映され、面白い。  さらには、「思はじと思ふも物を思ふなり思はじとだに思はじや君」といった禅問答のような歌から、民衆への布教のためか、わかりやすく説教じみたものまで、実にさまざまな歌が集められている。  それぞれの歌に付けられた2~4ページほどの解説によって歴史的背景や詠み手の人となりもわかり、読み物としても楽しめる本だ。
    虫と文明
    虫と文明 昔から人が恩恵を受けている昆虫といえば、思い浮かぶのは絹が取れる蚕と蜂蜜を作るミツバチぐらいか。だが驚くなかれ、日用品から農業、医療、宝飾品と何から何まで人は虫のお世話になってきたという。昆虫を愛してやまない昆虫学者が、人と昆虫の深く長いかかわりについて語る。  最高級の赤い染料はカイガラムシが原料。養殖を独占していたスペインは巨万の富を築いた。中東では今もアブラムシがお尻から出す甘露でお菓子を作る。いくつかの国では傷口をアリに噛ませて、そのあごを傷を縫い合わせるホチキスの代わりにした。興味深いのはタマバチが木に作るこぶで、これが黒インクの原料。この虫がいなければ何ひとつ記録を残せなかったわけだ。人類の歴史は虫のおかげで存在するともいえる。  本書には日本文化の中の虫も登場する。虫を「利用する」西洋に比べ、蛍の幻想的な明かりや鈴虫の声を「愛でる」感性はやはり独特。昆虫の生態とともに虫をめぐる人の生活も生き生きと伝えて、優れた人類学の書ともなっている。
    おいしい話に、のってみた
    おいしい話に、のってみた キャッチセールスの現場に潜入するなどのルポを手がけてきた著者の新作。規制強化で路上でのキャッチは下火だが、雑誌の広告やインターネット上には「楽して一日5万円稼げます」など甘い誘い文句が無数に並ぶ。著者自ら片っ端から試したのが本書。  消費者の嗜好の多様化から、現代の「おいしい話」も多岐にわたる。競馬の投資情報、幸運を呼ぶブレスレットなどの古典的な商品から、激安商品のネットオークション、フェイスブック上で有名人と知り合えるサービスまで。カネを払わせる手口は異なるが、問題商法の業者が購入希望者の経済状況を根掘り葉掘り聞きながら、懐事情に合わせて商品をすすめる点は共通する。不況下の今は、業者も金持ちだけをカモにしていては儲けられず、食いついた客に必死に営業しないと「おいしくない」時代なのだ。  業者と著者とのかみ合わないやり取りも読みどころ。構成次第では抱腹絶倒の展開に持ち込めるのではと思える場面も少なくないが、あくまでも問題商法の実態究明に真摯に取り組む著者に敬服。
    火山のふもとで
    火山のふもとで 「考える人」などの編集長を務めた著者の、デビュー作となる長篇小説。建築家志望の若者が、著名事務所の一員として、一般利用者が気軽に入館できる「国立現代図書館」の設計コンペに携わる熱い物語だ。おもに1982年の夏が舞台。浅間山のふもとの山荘に籠もり、事務所の人々と設計に勤しむ豊かな暮らしに、所長の姪との恋模様が加わる。  主人公が入所した事務所は、質実で純朴で親密な、時代に左右されることのない設計が持ち味。その所長の村井が、図書館には教会と似たところがあると考える場面がある。ふだん属する社会や家族から離れ、人がひとりで出かけて行って、そのまま受け入れられる場所。彼の想いの先には、現在再評価が進む建築家グンナール・アスプルンドのストックホルム市立図書館があった。円形の書棚が大閲覧室を取り囲む空間。競合相手が高度成長の波に乗り、華々しい脚光を浴びてきたからか、村井はこれまでになく生き急ぐ。  ひと夏の闘いは浅間山の噴火と共に終わるが、あとには穏やかな品の良さが残る。
    家族の悩みにおこたえしましょう
    家族の悩みにおこたえしましょう 本書は母娘問題の著作で知られるカウンセラーが、これまでの経験に基づき想定した架空の相談者(クライエント)の家族関係に関する相談をQ&A形式でまとめたものだ。  新聞やネット上の人生相談は巷に溢れているが、本書との違いは「責任の有無」にある。基本となるのは相談者と同じ目線に立ち、問題に見合った対処策を見いだすカウンセリングのスタンスだ。ある見方を前提に問いが作られた時点で既に答えは出ている、という視点を基本とする。著者の役割は問題を取り巻く状況を整理し、根底にある見方や気持ちを指摘すること。また、必要に応じて視点の転換を促すことにある。たとえば実の子がかわいく感じられないという母に対しては、本当の問題は子が母になつかないため生じる自尊心の傷つきにあると指摘。背景に横たわる「子どもを平等に愛せよ」という一般的な見方を捨て、視野を広げることを勧める。  明確な語り口には、ハッとさせられる部分も多い。自分の問題を重ねれば、著者の回答がより説得的に響くだろう。
    ネジと人工衛星 世界一の工場町を歩く
    ネジと人工衛星 世界一の工場町を歩く 東大阪市高井田地域は、日本でもっとも工場が密集している町。9割方が従業員20名以下の小さな工場だ。スプリングやネジ、プラスチック製品の成形に欠かせない金型など、私たちの生活を支える物の数々がここで生み出されている。本書は、聞き書きの名手として知られる著者が13社を訪ね、工場主たちの話をまとめたもの。それぞれどんな物を、どうやって作っているのか。時代によって変わったこと、変わらないことは何か。飾らない語り口から、工場町のいまが見えてくる。  まず、各社の製品にまつわる話が面白い。たとえばバネはどんな機械にも入っている上に消耗品だから、技術さえあれば注文がつづく分野だという。そう聞けば、小さな部品を見る目も変わる。ミクロン単位の金属表面処理から鉄道・航空機部品まで、工業製品とはいえ生身の人間が考え、工夫し、技を磨いて作る。機械化が進んでも「最終的には人の加減」。よい品を納めて信頼を得てきた誇りがあるから、「おっちゃん」たちの言葉は背筋が通っている。学ぶべきことは多い。

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