AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL

「話題の新刊」に関する記事一覧

人と芸術とアンドロイド
人と芸術とアンドロイド 開発者とそっくりのリアルなロボットや20代女性そっくりのロボットをテレビや写真などで見た人も多いだろう。本書の著者はそれらのロボットの開発者であり、すなわち開発者そっくりのロボットのモデルでもある。  著者は、自身が開発したリアルな「実在人間型ロボット」をジェミノイドと呼ぶ。「ジェミ」はジェミニ=双子座に由来し、「双子もどき」といった意味。そのロボットを使い、「人間そっくりのロボットに本物の人間がどう反応するのか」を調べ、それによって「人間とは何か」を追い求めてゆくのだ。  さらに、人間とは何かを追求するとき、ロボット技術は芸術へ昇華する、と著者は言う。「直感や芸術的発想にもとづいた技術の開発と、それを通した人間に対する理解が同時に進行していく」ことこそが、新しい技術開発の様相であるというのだ。  表紙カバーには、夕日をバックに遠くを見る女性ジェミノイドの写真。読後に今一度それを眺めれば、ロボットである彼女が「自分は何者か」を考えているようにも見えるのである。
大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた
大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた 最近だと「カーネーション」が話題となったが、朝ドラを何年も習慣的に見続けている人は少なくないだろう。著者も「マー姉ちゃん」(1979年)に始まり、6歳の頃から全て見ており、日本人にとって朝ドラとは何なのか、そんな疑問から筆を執っている。  朝ドラに登場するヒロインや家族、恋愛や結婚を丁寧に分析していくと、実に色濃く、女性の生き方や時代性が浮かび上がってくる。たとえば、朝ドラ人気に火をつけた「おはなはん」(1966年)では、ヒロインは再婚の話を断り、子どものために生きていくことを選ぶのだが、1986年の男女雇用機会均等法元年に放送された「はね駒」は、女性新聞記者の半生を描き高視聴率を取った。2000年の「私の青空」では、初めてシングルマザーが題材となっている。  ドラマ制作に携わったスタッフへの取材も多く、その裏話がおもしろい。社会進出していく「はね駒」のヒロインの言動が「かわいくない」と、男性スタッフに不評だったという話には苦笑いしたが。
未亡人読本 いつか来る日のために
未亡人読本 いつか来る日のために 本書は「誰か教えてくれよぉ、未亡人になるとどうなっちゃうの?」という著者の悲痛な叫びから出発している。夫を悪性リンパ腫で亡くした時代小説家は、冒頭から前途多難だ。  看取りの感傷に浸る間もなくさっさと病室を引き払い、すぐさまお葬式の準備に突入。さらに、子ナシ夫婦の未亡人だから、遺産相続も複雑だ。そんな修羅場をくぐり抜けた後に待っていたのは、まさかのウツ。人と会うことはもちろん、電話にも出られなくなった。それでも、少しずつ仕事を再開し、亡夫を偲ぶ会を開き、「ひとりでもやっていける」と思えるところまでたどり着く過程を追っていると、悲しみよりも希望が強く感じられ、読み進めるのが楽しくなってゆく。  小説家ならではのリアルな心理描写と、必ずや多くの未亡人たちを助けるであろう実務的なアドバイスの数々、そして、未亡人という存在の文化的・歴史的背景に至るまでが、一冊の中にぎゅっと詰まっている。未亡人世代はもちろん、結婚を夢見る若い世代も、後学のために読んでおくべき一冊だ。
和牛詐欺 人を騙す犯罪はなぜなくならないのか
和牛詐欺 人を騙す犯罪はなぜなくならないのか 繁殖牛の権利を販売する和牛オーナー制度で出資を集めた安愚楽牧場が経営破綻したのは記憶に新しい。オーナーから募った総額は4200億円。経営陣が立件されれば戦後最大の詐欺商法事件に発展する。ただ、立件されても疑問は残る。なぜ今まで杜撰な経営が放置されてきたのか。本書は共同通信記者である著者が取材体験をもとに詐欺事件がなくならない構造を解き明かしている。  著者は詐欺事件こそ調査報道だと指摘する。安愚楽牧場の件でも貸借対照表や損益計算書を眺めるだけで矛盾がぼろぼろと出てくるという。公開資料だけで詐欺の内側に迫れるのだ。逆に地道な情報の積み重ねが必要であるからこそ、記者は取材に取り組まず、警察も詐欺事件を敬遠しがちだ。似たような詐欺が繰り返される理由も警察の捜査効率にある。  興味深いのは著者の本職が事件取材ではない点だ。詐欺事件を取材してきたのは仕事の合間。政治家の腐敗追及も大事だが、消費者の視線に立ち続ける「詐欺専門記者」が一社に一人はいてもいいかも。
ドビュッシーとの散歩
ドビュッシーとの散歩 ドビュッシー演奏の第一人者である著者がピアノ曲と人物像に迫ったエッセイ集。  繊細で緻密な作曲家という印象のドビュッシー。実は童話好きの子供っぽい一面もあった。代表作である「前奏曲集第一巻」の「西風の見たもの」はアンデルセン「楽園の庭」をもとにしたもの。アンデルセンの童話をベースにした戯曲のための「子守唄」も書いた。愛に貪欲で上流階級のエンマとかけ落ちした大胆さも、そうした純粋さに起因している。その頃完成した「喜びの島」について彼は「この作品はピアノで演奏しうるすべての手法の集大成のように思われます」と周囲の喧騒にもかかわらず満足気だ。ボードレールやヴェルレーヌを好み、「月の光」など詩をタイトルに引用した。代表作「亜麻色の髪の乙女」のタイトルが表すように、髪フェチでもあった。  そんな彼の魅力を最大限伝えるため、著者はトークを交えたテーマ性のあるコンサートを催している。今年はドビュッシー生誕百五十年。新たな光が当てられている。
ヒーローを待っていても世界は変わらない
ヒーローを待っていても世界は変わらない 貧困問題に取り組み続ける著者による「民主主義」論である。国内の民主主義が現在抱える「ねじれ」を指摘し、視点の転換を促す。  著者は近年の民意の特徴に「ヒーロー探し」をあげる。主権者が自分たちで問題を調整し、合意形成する民主主義のスタイルは現実的に面倒くさい。ゆえに、人々に代わり悪を懲らしめる切り込み隊長=ヒーローが待望される。しかし、万人が合意する判断はありえない以上ヒーロー探しは裏切りを前提とし、民主主義の空洞化を加速させるという二重のねじれを抱えている。現象の背景には格差・貧困の増大による人々の余裕の消失があるが、いま必要なのは人と人の関係を結び直す「場」を作り、「自分たちで決める」基盤を取り戻すこと。たとえば「足湯」や「炊き出し」などのボランティアはいずれも被支援者のニーズを聞き出し、共同体間の調整や合意形成をスムーズにするツールとなる。  主張は一貫しているが、押しつけがましさは微塵も感じさせない。真摯に語りかける、著者の姿勢に心を打たれる。

この人と一緒に考える

母と娘のエチュード
母と娘のエチュード 著者は現在49歳。1枚の絵を1週間かけて仕上げる「とびきり仕事が遅い」イラストレーターだ。「めったに稼げない」という自覚があるのに、シングルで娘を産み、山奥のボロ家を購入してしまった。  アリからカマドウマに至る様々な昆虫の住む納屋で寝起き。冬になれば、ストーブの熱が全部逃げていき、室外仕様の格好でなければ凍えてしまう。厳しいとしか言いようがない生活環境だが、当人たちにしてみれば、都会生活の方が何倍もストレスフルだった。電車通勤に疲れ果て仕事を辞めた母、クラスの「みんな」の中に埋没し、自分らしさを失ってゆく娘。「私たちは、自分たちの手で家族の形を作り、自分たちを容(い)れる場をつくり出す必要があった」という言葉が示すとおり、向こう見ずに見える人生も、自己を再生させるために考え抜かれた選択の積み重ね。直感的としか思えない行動にも、言葉にできない理論が息づいているのだ。多くの人が是とする人生の既定コースなど無視するかのような彼女たちの貧乏暮らしは、痛快で、とても眩しい。
四次元が見えるようになる本
四次元が見えるようになる本 3次元で生きるわれわれには、実際に4次元の世界を見ることができない。しかし、位相幾何学的グラフ理論の第一人者で、なおかつ「計算しない数学」を提唱している著者は、4次元の身体感覚を身につけることは可能だ、という。  ごく簡単に言えば、4次元とは、4本の座標軸が直交している空間であり、3次元空間を見下ろしたり、無限に重ねたりできる。それは、われわれが、紙に書かれた2次元の世界を上から見下ろしたり、重ねたりできるのに近く、そういった具体的なものからイメージを広げていくことで徐々に4次元の世界を想像できるようになってくる。  ドラえもんの「4次元ポケット」の構造や、4次元ではふたを開けずに箱の中身を取り出せたり、あらゆる結び目がほどけてしまうことなども、なんとなく納得できるようになるのだ。  スプーン曲げや壁抜け、瞬間移動などのオカルト的なトピックを敢えて取り上げて数学的に解説するなど、その内容は親しみやすく、専門知識がなくとも楽しみながら読める作品だ。
こんな日もあるさ 23のコラム・ノンフィクション
こんな日もあるさ 23のコラム・ノンフィクション 街を行き交う大勢の人々。人はそれぞれの人生を歩んでいるが、赤の他人がその内容に触れることはまずない。本書に綴られた23編の“コラム・ノンフィクション”には、そんな市井の人々の生き方が描き出されている。  突然、希望退職を切り出されたサラリーマン。「自分の生きがいが欲しい」とセックスフレンドを作った55歳の男性。「婚活」をすればするほど結婚から遠のく男女、日本で不当な待遇を強いられるガーナ人労働者。パチンコ中毒の妻に悩まされる男性。それぞれに物語を持ち、悩み、苦しみ、日々を生きている。  著者はそんな彼らと適度な距離感を保ちつつ、声にならない心の叫びを丁寧にすくい取る。物語の多くは、昨今の日本を反映してか、困難な状況に直面している人が多い。読み手はそこに自分の人生を重ね、共感を覚え、時には励まされることになる。  全ての物語は今もどこかで続いているはずだ。無名の登場人物たちは、表紙に描かれた街灯のような温もりを求め、人生を歩み続けているのだろう。
世界の頂点を目指して 日本最強馬 秘められた血統
世界の頂点を目指して 日本最強馬 秘められた血統 日本競馬史上、7頭目の三冠馬となったオルフェーヴル。10月7日にフランス・凱旋門賞への参戦を控え、すでに現地で前哨戦のフォワ賞を快勝している。本書はその血統を縦糸に、日本馬の海外遠征史を横糸に綴った一冊だ。  華々しい活躍が目立つオルフェーヴルだが、その血統には「過去のホースマンたちの無念の思いが凝縮されている」という。オルフェーヴルの母の父・メジロマックイーンを生んだメジロ牧場は、経営難から44年の歴史に幕を閉じた。しかし、わずか9日後にオルフェーヴルが日本ダービーを勝ち、名門牧場の血統は残ることになった。父・母・母の父まで全て日本で生まれた“内国産馬”のオルフェーヴルだからこそ、関わった人々の思いが胸に迫る。  日本馬の海外遠征の変遷についても詳しい。かつては30馬身差で惨敗するなど大敗の山を築いたが、昨年には世界最高賞金のドバイのレースで日本馬が勝つまでに進化を遂げた。それでも、まだ凱旋門賞を勝った馬はいない。オルフェーヴルの走りが期待される。
台湾海峡一九四九
台湾海峡一九四九 「家族の歴史を知りたい」とドイツで暮らす19歳の息子が言った。母、つまり著者は、その問いに応えていく。はじまりは自分の両親の歩み。なぜ、中国大陸から海峡を越え台湾にやってきたのか。1949年、母は中国の故郷から列車を乗り継ぎ、気がつくと海南島にいた。長男は故郷に残し次男を胸に抱いて。そして、難民のひとりとして台湾の南・高雄にやってきた。  背景には、中国大陸での共産党と国民党の内戦があった。父は国民党軍の関係者。200万人が難民となり海を渡ったという。その難民相手に、母は薄く切った西瓜を売りながら子どもを育てた。  母と同じ運命を引き受けた1949年の体験者を訪ね、口述記録を重ねていく。国民党軍にだまされて海を渡った男。共産党と国民党にひきさかれた幼馴染み。映画「悲情城市」が描いた「2.28事件」の台湾人の悲劇で傷ついた記憶を持つ人も描く。09年、台湾で刊行されベストセラーになるが、中国では禁書という歴史ノンフィクション作品。
米軍が恐れた「卑怯な日本軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて
米軍が恐れた「卑怯な日本軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて 「卑怯な日本軍」とは、米軍が兵士向けに作成した対日戦マニュアルだ。そこには日本陸軍が、日中戦で中国軍より血をもって学んだ、降伏するふりや死んだふり、不意打ち、偽装、地雷、仕掛け爆弾といった“弱者の戦法”が記されていた。マニュアルはまずこう始まる。「日本軍は卑怯な手を好む。戦争の歴史上、背信とずる賢さにおいて日本軍にかなう軍隊は存在しない」と。  本書では特に多くのページを割いて、日本軍が使った即席地雷や種々の仕掛け爆弾が、写真と図版入りで紹介されている。例えば、ヤシの実爆弾、缶詰爆弾、歯磨きチューブ爆弾、石鹸爆弾、芸者ガールの写真を餌にしたブービー・トラップ等々。また、他の「戦略」として「サイパンで見つかった日本製の大量の酒は、『ブルゴーニュ』のラベルがついたメチルアルコールであった」とも。偽装の一例としては、硫黄島を“守備”していた火山灰で造られたダミー戦車の写真が紹介されている──著者は最後に、以上の「伝統と戦訓」を、現在の自衛隊は継承しているとも示唆している。

特集special feature

    女ことばと日本語
    女ことばと日本語 驚いたときは「まあ」、語尾には「だわ・のよ」。女性だけが使う「女ことば」の存在を当たり前と思っている人は多いだろう。女ことばは日本語の伝統、また優しく上品な「女らしさ」から自然に生まれるものと言われる。だが実際は、今も昔も、女性がみんな女ことばを使っていた時代などない。本書は、女ことばと呼ばれるものが現れ、変遷する様子、そして国語の成立や女性の地位と深く関わるさまを、多様な実例とともに丁寧に解き明かしてくれる。  女は話しすぎるな、と説くマナー本は鎌倉時代からあり、室町時代には宮中の女性たちの間で「髪」を「お髪(ぐし)」と呼ぶなどの女房詞が発達、これが江戸時代に入ると女の使うべき言葉とされるように。明治時代には、国語=標準語を定める過程で、男子学生の言葉は標準語に採用されたのに対し、「よくってよ」といった女子学生の言葉は正しい国語から排除されて、性的な響きを帯びた「女ことば」に押しこまれてしまう。では戦中、終戦直後は? 日本語を問い直すきっかけになる本。
    中継ぎ投手 荒れたマウンドのエースたち
    中継ぎ投手 荒れたマウンドのエースたち 昨年、プロ野球の中日ドラゴンズの浅尾拓也投手はセ・リーグの最優秀選手に輝いた。彼は花形の先発投手でもなく試合を締めくくる抑え投手でもない。試合の中盤から登板して、抑えにつなぐ中継ぎ投手だ。投手分業制の確立で中継ぎの地位が向上したことを印象づけたが、一昔前まで中継ぎは、投げても投げても記録が残らず、恵まれないポジションだった。  80年代に阪神タイガースを支えた福間納は313試合連続してベンチに入った。元中日の鹿島忠は雨が降ろうとも毎日、肩をつくった。元ダイエーの吉田豊彦は先発から中継ぎに格下げとなったが、腐らずに投げ続け、セットアッパーとして復活した。  本書に登場する9人の中継ぎは年俸や記録の点では不遇だったのかもしれない。連投に次ぐ連投で選手生命を縮めた人もいるだろう。ただ、彼らは不思議に現在は解説者やコーチの職を得ている。見ている人は見ているのだ。目の前の仕事を黙々と全うすることが大切だと改めて気付かされる一冊。
    アルプス高地での戦い ラミュ小説集
    アルプス高地での戦い ラミュ小説集 20世紀スイス文学を代表する作家なのに、まだ邦訳が少ないラミュ。本書は表題作のほか『デルボランス』と『民族の隔たり』、あわせて3編の本邦初訳となる長編小説を収めた待望の一冊だ。描かれるのはアルプスの山々とそこに生きる人々。小説好きはもちろん、山好きや、スイスの風土を知りたい方にも薦めたい。 『デルボランス』は、自然災害をめぐる話。土地の男たちは夏場、家族を村に残し、山奥の窪地・デルボランスに数カ月滞在して働くが、ある年、いきなり山崩れが起き、男たちを呑みこんだ。テレーズの新婚の夫、アントワーヌもその中にいた……。災厄の報せが村へ伝わる様子が刻々と書かれ、テレーズ夫妻の物語と絡み合う。 『民族の隔たり』は、山のこちら側はフランス語圏、向こう側はドイツ語圏、民族も文化も異なるという地域が舞台。こちらの男が向こうの女を見初め、誘拐してしまう。『アルプス高地での戦い』は、革命期の内乱を背景に、家族の確執と報われぬ恋を描く。詩情をたたえた山の景色、人間の運命に魅せられる。
    植物からの警告
    植物からの警告 海外50以上の国で植物の生態を調査する学者が、植物を通じた環境の変動を、南アフリカやギアナ高地、イースター島など9カ国を例に検証する。  日本では中国原産のモウソウチクが関東以西の里山を侵食し、日本本来の景観を変えるほどだという。現在、山村の高齢化によって里山の手入れがなされていないことが原因の一つ。モウソウチクは根が浅いため、雨が降れば斜面が雪崩のような地滑りを起こす場合がある。実際に四国でそのような例があった。モウソウチクの手入れは、国土保全のために国家的に取り組むべきものだと指摘する。  マダガスカルではバオバブの若木が育っていない。新しい住民に、生活に必要な樹皮をまるごとはがされ倒れていく。かつては海だったオーストラリアの西部では地下の塩分が地表付近に溶け出し、ユーカリの林が白く立ち枯れてしまっている。人間が森を切り拓いて、土地の保水力をなくしたからだ。生態系の変化と同時に、そのきっかけが人間の行動であることも伝えている。
    歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子闘病の十年
    歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子闘病の十年 「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」。現代を代表する歌人の河野裕子が死去する前日に詠んだ最後の歌だ。本書は夫であり歌人の著者が、河野が癌に侵されてからの10年を包み隠さず振り返っている。  河野が病床で書きつづった歌を家族が整理する光景はテレビでも取り上げられており、一家の濃密な関係を目にした人も多いだろう。ただ、それは壮絶な体験を経てようやくたどり着いた関係だ。精神に変調をきたした河野は、包丁を畳に突き立て、家族に罵詈雑言を浴びせるなどの奇行も少なくなかったという。著者は当時を死にたかったと思い起こす。  河野と一家を救ったのは歌だった。癌再発と時を同じくして、夫婦で新聞連載を始めることで、夫婦は絆を深めていく。結果、冒頭の歌も生まれたのだ。  ただ歌は同時に著者を苦しめる。河野の死後、残された歌を見つけて「あの時、なぜ気付かなかったのか」と自責の念にかられる。河野の歌に込めた思いを汲んだ本書が妻への最大の弔いなのだろう。
    ウッドストックへの道
    ウッドストックへの道 LSDという新種ドラッグの出現によって、突如一斉にサイケデリック文化が花開き、ヒッピーたちが「サマー・オブ・ラブ」と呼んだ季節──1969年8月に、50万人を集めて開催されたロックフェス「ウッドストック」。本書は伝説の舞台裏を、主催者マイケル・ラングが40年ぶりに回想したもの。  当時ラングは24歳。徒手空拳の彼が数々のトラブルと妨害を、持ち前のクレバーさで乗り越え、フェス開催にこぎつけるまでの物語は、豊臣秀吉の「一夜城」ロック講談版を思わせる。すったもんだの末、会場が決まったのが開催日三週間前。スタッフたちは会場の設営整備に、コカインを吸っては夜通し励んだが、会場を仕切る柵と、当日券販売所は手をつけられなかった。よって「ウッドストック」はなし崩し的にフリー・コンサートとなり、ラブ&ピースの祝祭が成立したのだ。本書の白眉は、オープニング・アクトを務めたリッチー・ヘイヴンスが「フリーダム」を歌う瞬間──あのロック史に残る名演が、即興だったとは!

    カテゴリから探す