持病の頭痛を治せる唯一の医師を獄死させた「三国志」曹操の後悔 現代の医師が診断
『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回は三国志の英傑・曹操を「診断」する。 * * * 私たちのイメージする歴史上の人物は、後世の作家が描いた人物像に基づいていることが多い。代表的なのがいわゆる「司馬史観」で、戦国の英雄や維新回天の志士として描かれるとよいが、悪役や無能な軍人とされると子孫の方は肩身が狭いだろうと思う。以前、ご先祖が、維新後は子爵に叙せられた勇猛な薩摩藩士だったが、司馬遼太郎先生に「悪役にされてしまった」と嘆いていた上品な老紳士を思い出す。 さて、中国のみならず台湾、香港、シンガポールなど中華文化圏で誰もが知っているキャラクターは三国志の登場人物、智将・諸葛孔明、人徳者の劉備玄徳、勇猛果敢な関羽と張飛、そして悪の権化・魏の曹操であろう。実際のところは「司馬史観」同様にこのイメージは明代の歴史小説「三国志演義」に基づくものであり、史実はまた違っている。しかし、これらの人びとが2千年を越える中国史を彩る群雄の中で知力胆力とも最も優れた人物たちであり、曹操がその中でも抜きん出た存在であったことは間違いない。 ■高級官吏の子として生まれ 後漢の丞相で後に魏の国王となる曹操は、宦官の養子で高級官吏だった曹嵩の子として生まれた。若年は無頼の徒であったが名門の生まれが幸いし若くして洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任した。やがて中国全土をゆるがす「黄巾の乱」が起こると、騎都尉(きとい)としてこれを討伐し、西園八校尉に任命された。 しかし、十常侍ら宦官の跋扈を憎んだ将軍・董卓が天下を取り、宮廷内が乱れると、曹操は洛陽から落去した。後に皇帝から、黄巾討伐の詔勅を受けるとこれを討伐して降伏した精兵を支配下に入れて力を蓄えた。対立する袁術と陶謙に父・曹嵩他一族を伐たれた曹操は大軍を率いて徐州に侵攻、董卓を倒した勇将・呂布や袁紹と死闘を繰り広げるが、建安5年(200年)、「官渡の戦い」でかつての友であり後に最大の敵となった袁紹を破り、後漢王朝最大の実力者として建安13年(208年)年には献帝に丞相に任じられ天下を握る。しかし、これを認めない蜀の劉備、呉の孫権といわゆる三国志を繰り広げていく。
AERA
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