2012年4月26日 福島県田村市三春町中妻(左)、2012年7月24日 岩手県大船渡市赤崎町蛸ノ浦(撮影:田代一倫)
2012年4月26日 福島県田村市三春町中妻(左)、2012年7月24日 岩手県大船渡市赤崎町蛸ノ浦(撮影:田代一倫)

「もう、途中で、どっちが目的なのか、わからなくなっていたんです」

 撮影をお願いしても承諾してくれる人は20人から30人に1人にすぎなかった。

 それでも、「写真を写すと、『頑張ってください』と、言われることが多かったんです。もちろんそれは、ありがたかったんですけれど、けっこうつらかったですね」。

 東北に繰り返し足を運ぶようになり、「作品にする、発表するという覚悟を決めていった」のは、撮り始めてから1年ほどたってからのことだった。

「やっぱり、撮らせてくれたからにはきちんとしたかたちで世に残したい、という気持ちになってきて。そこまではやりきろうと思って、必死にやったんです」

 撮影も後半になると、5人に1人ほどが受け入れてくれるようになった。

「自分でも、ちょっと恐ろしいな、と思ったんですけれど、お願いするのがうまくなるというか、人に詰めていく歩き方とか、間合いとか、それを人によって変えているんです。勝手に体が動いたというか。それはほんと、自分でも驚きましたね」

 2年間で撮影した人数は約1200人。声をかけたのは数万人にもなるという。

「もう、むちゃくちゃ行っていましたね。1年の4分の1は東北にいたと思います」

 話を聞いていくうちに思い浮かんだのは、被災地とはかけ離れた「沖縄病」という言葉だった。沖縄をあまりにも好きになってしまった人が、沖縄に通いつめてしまうことを病に例えて言うのだが、田代さんはいわば「東北病」にかかってしまったようだった。

「震災が起こったのにもかかわらず、この土地の豊かさとか、人柄の良さに引かれてしまったんです。みんな、とても奥ゆかしい。人と会って、気づくことがすごく豊かなものだった。楽しさ、と言ったらなんですけど」

 しかし、その言葉を聞くと、またモヤモヤとした気持ちが湧き上がてきた。もちろん、地元の人とつながりを楽しく感じる気持ちは理解できる。けれど、写真家である田代さんの目的は被災者との交流ではなく、撮影のはずだ。

 ところが、「もう、途中で、どっちが目的なのか、わからなくなっていたんですよ」。

2013年1月1日 福島県南相馬市原町区中太田(左)、2013年2月22日 福島県双葉郡楢葉町山田岡(撮影:田代一倫)
2013年1月1日 福島県南相馬市原町区中太田(左)、2013年2月22日 福島県双葉郡楢葉町山田岡(撮影:田代一倫)

「東京が好きじゃなくて。嫌いだな、と思いつつ撮り続けた」

 その発言の意味が腹にすとんと落ちたのは、しばらく話した後のことだった。

「はまゆりの頃に」を発表した後、田代さんはアルバイトをしながら東京を撮り始めるのだが、その一つ、福祉関係の仕事について、「写真家じゃなくて、こっちが天職なんじゃないかと思っていました」と、つぶやいた。

 障がい者が働く喫茶店で、いっしょに働いた。車いすの人に連れ添って外に出た。

 その体験と、被災地で20、30分ゆったりと会話を交わしながら写真を写した濃密な人との触れ合いが私の脳裏で重なった。しかし、それと同時に、田代さんのやっていることのアンバランスさというか、プツンと切れてしまいそうな糸を見るような、あやうさを感じていった。

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撮影することが生活から切り離せなくなった