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石田三成、関ヶ原前夜の攻防戦「美濃迎撃ライン構想」とは

短期連載「義に生き、殉じた――石田三成の真実」(3)

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外川淳dot.#歴史
「西軍の各部隊と基本戦略」(図版作成:アトリエ・プラン/石田三成、小早川秀秋、毛利輝元:東京大学資料編纂所所蔵模写) 

「西軍の各部隊と基本戦略」(図版作成:アトリエ・プラン/石田三成、小早川秀秋、毛利輝元:東京大学資料編纂所所蔵模写) 

 いま、戦国武将・石田三成に注目が集まっている。かつての「凡将」という評価から一転、いまでは「忠臣」「名将」説を唱える歴史家も少なくない。その生涯と事跡を大特集した週刊朝日ムック『歴史道Vol.4』がお届けする短期集中連載。最終回となる今回は、関ヶ原前夜の戦にスポットをあてる。三成が抱いていた必勝策「美濃迎撃ライン構想」とはどのような作戦だったのか?

【画像】好臣?愚将?歴史家たちの石田三成像

第二回からつづく

*  *  *
■戦いの地は濃尾平野。三成はそう目論んでいた

 天下分け目の関ヶ原合戦において、徳川家康の東軍が勝利し、石田三成の西軍が敗れたことは紛れもない歴史的事実である。だが、東軍勝利を前提にして、戦国史上最大の決戦の推移を追っても、その全体像を理解することはできない。三成は多くの誤算が生じることによって敗れた一方、勝者となった家康も展開を先読みできたのではなく、薄氷を踏む思いでの勝利だった。

 天下分け目の決戦は、結果的には慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原盆地において行われた。

 三成は、家康との決戦が行われるなら、濃尾平野であろうと予想した。濃尾国境の木曾川を越えた尾張国内で刃を交えれば、それだけ優位に立つことができると考えていた。

 対する家康は、木曾川を越え、美濃を決戦の地とするような展開に持ち込みたかった。つまり、濃尾平野の西端に位置する関ヶ原で決戦が行われたということは、家康が決戦を前にして優位な状況を生み出していたといえよう。

 三成は、「内府違いの条々」が発せられ、家康討伐が秀頼の名で命じられるのであれば、会津征討へ向かった軍勢は解体されるだろうという情勢認識を抱いていた。だが、家康は小山評定を思いのままに進行させることにより、それまでは五大老筆頭としての立場で率いていた会津征討の軍勢を、自身が総大将の「東軍」へと変質させることに成功した。

 八月中旬には、東軍の先鋒部隊が清洲城(当時の城主は福島正則)に集結した。三成も大垣城に到着したことから、濃尾平野には東西両軍が集結しつつあった。

 正則は、小山評定において、三成打倒のため行動を共にすることを家康へ誓った。そのため、東軍は、清洲城まで進出することができた。ただし、東軍として参戦した武将たちのうち、藤堂高虎のように、家康に絶対的な忠誠を誓うことにより、高い信頼を得ようとした者も存在した一方、正則や加藤嘉明らは、秀頼の家臣としての本分を守ろうとした。

 三成には、東軍を分裂へと導く「秀頼出陣」という切り札があり、逆転への一手を懐に秘めながら、天下分け目の一戦に挑んだともいえる。この時点では、まだ東軍勝利は歴史の必然ではなかった。(監修・文/外川淳)

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.4』より





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