写真奥に後楽園球場を望む。左側に写る東京歯科大学の校舎も瀟洒だ。(撮影・諸河久:1968年3月12日)
写真奥に後楽園球場を望む。左側に写る東京歯科大学の校舎も瀟洒だ。(撮影・諸河久:1968年3月12日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、後楽園球場を背景に白山通りを走る都電だ。

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 東京の、まん真ん中に堂々と鎮座した「後楽園球場」。空を見上げ、風を感じながらの観戦に懐かしさを覚える読者も多いだろう。辺りに歓声が響き渡ったかと思えば、試合後は近くを走る国鉄や都電に乗り込み、ぎゅうぎゅうになった車内で帰路につく――。

 今回の写真で、奥に写る円形建築物が「後楽園球場(正式名:後楽園スタジアム)」だ。筆者の母校である「日本大学経済学部」の校舎から俯瞰で撮影した一枚だ。眼下の白山通りを走る都電は池袋駅前発数寄屋橋行きの17系統だ。この17系統は1968年3月31日で池袋駅前~数寄屋橋の運行が池袋駅前~文京区役所前(旧春日町)に短縮されて、校舎のある三崎町から都電が消えることになるので、春休みで休講している大学の教室からお名残の一コマを狙った。

 都電のすぐ後ろを走る都バスは撮影の前月に廃止された35系統の代替バスで、巣鴨駅~一ツ橋を結ぶ「35 代替バス」のヘッドマークを掲示していた。このような代替バスは都電廃止後、地下鉄が整備されるまでの過渡的な処置として、欠けた都電の路線網を補完したが、地下鉄網の進捗とともにいつしか廃止されてしまった。

昭和42年6月の路線図。水道橋界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和42年6月の路線図。水道橋界隈(資料提供/東京都交通局)

 三崎町界隈の白山通りに路面電車が走ったのは1908年で「東京鉄道」が敷設した水道橋線の一部にあたる水道橋~神保町781mの路線だった。戦前はこの区間を16・18の二系統が走り、戦後の運転系統改編で2・17・18・35の四系統が走るようになった。2系統は1967年12月、18系統は1966年5月、35系統は1968年2月にそれぞれ廃止され、最後まで残った17系統が1968年3月に運転短縮され、白山通りから都電が消えた。

 写真左側のスクラッチタイルの瀟洒な建物が「東京歯科大学」の校舎。その奥が国鉄(現・JR)水道橋駅で、中央快速線と緩行線には当時の主力車両101系電車が走っている。ちなみに、水道橋駅の開業は明治期の1906年で、中央線の複々線化は1933年だった。

 よく見ていただいた方にはお気づきかもしれないが、今回の写真には都電のほか、都バス、国鉄の中央線、さらには総武線の車両が写り込んでいる。加えて、神田川を渡ったその背後には「後楽園球場」だ。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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