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昭和39年東京五輪の気運高まる「銀座」の元日 地下鉄に追いやられた都電の数奇な運命

連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」

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諸河久dot.#アサヒカメラ#鉄道
昭和38年2月の路線図。銀座四丁目界隈(資料提供/東京都交通局

昭和38年2月の路線図。銀座四丁目界隈(資料提供/東京都交通局

 ちなみに、時計塔のある和光本館の建物は1894年に竣工した初代時計塔を継承した二代目で、建築家・渡辺仁の設計により1932年に竣工。戦前から「服部時計店の時計塔」として親しまれてきた。戦後、服部時計店の小売部門が和光に継承され「和光本館」となった。優雅な曲面を描くネオ・ルネッサンス様式の時計塔の建物は、銀座を代表するランドマークとして時刻を刻み続けている。2008年に建物の補修・整備、外壁の洗浄・修復、店内のバリアフリー化などのリニューアル工事が実施され、翌2009年には銀座のレジェンド建築物として「近代化産業遺産」に認定された。

 写真の8000型は1956年から登場した都電で、翌年までに日本車輌、ナニワ工機、日立製作所で131両が製造された。路面電車を廃止しようとする思想に呼応し、耐用年数を短縮した設計が取り入れられ、工作簡易、軽量、低価格を実現した車両だった。軽量化の目的は達成したものの、騒音や振動が多く評判も芳しくなかった。筆者の乗車体験では、ローラースケートを履いて路上を走ったような、足の裏がむず痒くなる乗り心地だった。軽量車のため動きが俊敏で、スピード感のある走りっぷりが売り物だった。1972年11月に最後まで残存した20両が廃車されている。

 写真の撮影日でもある1964年1月1日付の朝日新聞には、「たくましい舞台づくり」と題して、代々木スポーツセンターや国立競技場、首都高などが写真特集で取り上げられていた。そのコラムにはこう書かれている。
<花やかな世紀の一大スペクタクルの舞台づくりが、いま地下を掘り、川をまたぎ、巨大な鉄骨を組合わせてたくましい足どりで進む。さながら大きな工事場と化した東京>

 当時の地下鉄の進捗状況は、開通済みの3号線(浅草―渋谷間)、4号線(池袋―荻窪間)のほかは、1号線、2号線などが突貫工事中であることが記されていた。

 銀座四丁目の交差点を行き交う都電は、南北の銀座通りを走る本通線が1、4、22、40の4系統。東西の晴海通りを走る築地線が8、9、11の3系統で、計7系統が四丁目で平面交差し、人だけでなく都電も賑わいを見せていた。だが、上記のように地下鉄網の完成にともない、1967年12月に本道線が、翌1968年9月には築地線が廃止となり、銀座四丁目交差点から路面電車の姿が永遠に消え去った。

■撮影:1964年1月1日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数


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