昭和42年6月の路線図。新橋~丸ノ内界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和42年6月の路線図。新橋~丸ノ内界隈(資料提供/東京都交通局)

 旧新橋停車場の跡地は「鉄道記念物」に指定されていた。この指定を改めて発掘調査の結果、新たに「旧新橋停車場跡」として保存されることになった。2003年、開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が開館された。駅舎の裏側には日本最初の鉄道起点であった「0哩(マイル)ポスト」と創業時に使われた「双頭レール」が保存展示されている。
 
 旧新橋駅界隈に路面電車が走ったのは、東京電車鉄道が鉄道馬車鉄道を電化した金杉線の薩摩原(さつまっぱら)~芝口(後年・三田~新橋に改称)約2600mと本通線の芝口~須田町約3800mで、1903年に開業した。いっぽう東京電気鉄道による蓬莱橋線も芝口~琴平町(後年・新橋~虎ノ門に改称)約1100mに開業を見ている。

 蓬莱橋線は1924年に芝口~三原橋約700mが延伸されが、1929年頃に震災復興道路として建設された「昭和通り」に移設された。1944年5月には三原橋~汐留(芝口が1933年頃新橋に改称され、新橋の先にあった折り返し地点を汐留と呼称)が廃止されて、終戦を迎えた。

 戦後の新橋交差点を走った都電は、金杉線と本通線の1系統(品川駅前~上野駅前)、4系統(五反田駅前~銀座二丁目)、22系統(南千住~新橋)の三系統。蓬莱橋線は6系統(渋谷駅前~新橋)だった。6系統は金杉線と交差して、昭和通り上の汐留停留所で折り返していた。1961年4月に汐留~新橋が廃止され、200m西側の外濠道路上の新橋停留所で折り返し運転するようになった。ちなみに、1944年に廃止された三原橋までは、32系統(飯田橋~四谷見附~赤坂見附~新橋~三原橋)が運転されていた。

 都電の背景の佃煮「新橋玉木屋」は江戸期1782(天明2)年の創業で、230余年続く老舗だ。この50年で店構えは変わったが、一戸建て店舗に変わらぬ「山七」の家紋が、存在感を顕示している。

 余談であるが、この写真を撮った時代、新橋駅を発着する東海道線列車は車内喫煙が可能だった。さすがに京浜東北線や山手線は禁煙だが、その反動なのか、プラットホームはラッシュ時でも紫煙が漂う「喫煙天国」だった。吸殻をホーム下にポイ捨てする行為も黙認されており、吸殻だらけのホーム下が「鳥の糞」と揶揄された時代でもあった。

 都電の停留所も右にならえの喫煙天国で、鳥の糞とまでいかなくても多くの吸殻が散乱するのが実情だった。「たばこ」は時代の象徴でもあり、いまから思えば懐かしいが、あの喫煙天国に戻りたいとも思えない。

■撮影:1967年9月19日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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