昭和40年3月の路線図。水天宮界隈(資料提供/東京都交通局)
昭和40年3月の路線図。水天宮界隈(資料提供/東京都交通局)

 和泉橋線の終点である水天宮前停留所は乗車場と降車場が相対式になっている。13系統と21系統の都電はここで乗客を降ろすと、少し南側にある折返し点まで走り運転台を交換。再度手前の乗車場まで戻って、乗車扱いをしていた。かつては約300m先の土州橋が終点で、折返し点のかなり先まで続く軌道敷きが往時を物語ってくれる。

 この水天宮前折返し線は、花電車の展示線として有名だった。1959年に運転された「皇太子殿下(現・平成天皇)御成婚記念祝賀花電車」が水天宮前で展示され、小学生の筆者は友人と自転車で見物に行った記憶がある。以来、1978年の「荒川線改装記念花電車」まで、都電の花電車が動くことはなかった。

 土州橋~水天宮前は戦時中の1944年5月、不急不要路線廃止の一環として、近隣の浜町河岸を走る浜町線(人形町~両国 1.1km)などと一緒に廃止された。旧土州橋停留所の南側が土州橋で、箱崎川を渡り箱崎町に続いていた。半世紀前の箱崎町は箱崎川、日本橋川、隅田川に囲まれた水の情緒が豊かな町だった。現在、箱崎川は埋め立てられ、東京シティ・エア・ターミナル(TCAT)の構造物と首都高速道路・箱崎インターチェンジに付帯する高速道路が空を覆っている。
 
 都電3000型は、大正期に製造された木造ボギー車3000型を中心に数形式の木造車を鋼体化改造して登場した。1949年度中に民間6社と交通局工場で213両が製造された。その後、1953年度までに29両が追加されて242両となり、6000型に次ぐ大所帯となった。車体の形態は6000型に準じているが、車長、車幅寸法が少し小さい。台車は旧3000型から捻出されたD10を使用。扉間側窓10個が標準タイプだった。

 写真の3239は1953年12月に日本鉄道自動車で新造された。3238とともに側窓8個、側面スカート付の外観で、当初から大型方向幕やドアエンジンが装備されていた。台車は新造のD16で、乗り心地が改善されている。

 水天宮が江戸に鎮座して今年がちょうど200年目。その水天宮前を走った21系統の最終運転は1969年10月、つまり、水天宮前から都電が消えて来年でちょうど50年が経つ。時の流れは長いようで短い。

■撮影:1964年3月13日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数。9月には軽便鉄道に特化した作品展「軽便風土記」をJCIIフォトサロン(東京都千代田区)にて開催予定。            

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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