この軍法は光秀によるもうひとつの「働き方改革」を物語って興味深い。光秀は家臣一人ひとりの石高に合わせて、どれだけの武器や兵員を合戦に準備するかを明確に定めた。つまり軍事動員の基準を明らかにして、家臣の働き過ぎを抑え、過剰動員で地域を疲弊させない持続可能な社会を目指したのだった。

 城づくりにも光秀が家臣を尊重したようすは表れていて、光秀は信長の苛烈さとは異なる方法で新しい社会をつくろうとしていた。光秀が目指した社会が実現していたら、二一世紀の日本も違っていたように思う。

■本能寺の変直前に信長の御座所を準備していた光秀

 明智光秀はいくつもの城を築いたが、光秀の居城は破却されたり近世城郭に改修されたりして、当時の姿はよくわからない。その中で京都市右京区の周山城は、光秀の城の謎を解く鍵を握っている。周山城へは、京都の市街地から国道162号を北上し「鳥獣戯画が」で有名な高山寺を越えて山間を進む。たどりついた京北周山町は山に囲まれた小さな町である。

 光秀の居城であった大津市の坂本城や京都府亀岡市の亀山城は城と城下が一体化した流通と経済の中心だった。戦って敵を倒した後に「光秀が治めたから地域が栄えた」といわれるまちづくりを光秀は目指した。そうした築城方針から考えると、周山城の立地は不思議ではないか。

 周山城は東西一・四キロにも達した本格的な山城で、光秀は一五八一(天正九)年八月に堺の豪商で当代一流の茶人であった津田宗及を招いて、十五夜の月見の宴を開いた(『津田宗及茶湯日記』)。宗及を歓待したのは本丸の天主と思われ、石垣を連ねた周山城には宴会や文芸活動にふさわしい室礼の光秀流天主が立っていた。

 光秀が周山城の築城に着手した一五七九(天正七)年頃の状況を俯瞰してみよう。光秀が平定を進めた丹波、盟友の細川藤孝が治めた丹後の西に但馬(現在の兵庫県但馬地方)があった。但馬は信長と対立した毛利輝元の領国で、両者の取り合いがつづいていた。そして一五七九年頃から織田が徐々に但馬を奪い、その西にある鳥取城が、織田と毛利の争点になった。一五八〇年には秀吉がいったん鳥取城を落としたが、毛利が奪還した。そこで一五八一年に信長が出陣して輝元と鳥取で決戦する計画が進んでいた。

 こうした状況から考えると、光秀は京都から山陰ルートで鳥取へつながる要地、周山に城を築いて信長を迎え、織田軍の先頭に立って華々しく毛利と戦う未来を思い描いていたのが見えてくる。周山城は光秀が信長の「御座所」になるよう心を尽くして築いた城だったのである。

 しかし光秀の夢は実現しなかった。羽柴秀吉が瀬戸内側から長駆して但馬を平定し、鳥取城攻めを独力で成し遂げてしまったからである。秀吉に栄光をすべて取られた光秀の落胆は、察して余りある。本能寺の変一年前のこの出来事は、光秀がなぜ謀反したかの理由のひとつだと考えている。

●千田嘉博(せんだ・よしひろ)

1963年生まれ。城郭考古学者。奈良大学卒業。文部省在外研究員としてドイツ考古学研究所・ヨーク大学に留学。大阪大学博士(文学)。名古屋市見晴台考古資料館学芸員、国立歴史民俗博物館考古研究部助手・助教授、奈良大学助教授・教授、テュービンゲン大学客員教授を経て、2014年から16年に奈良大学学長。現在、奈良大学文学部文化財学科教授・名古屋市立大学特任教授。2015年に濱田青陵賞を受賞。著書に『織豊系城郭の形成』(東京大学出版会)、『戦国の城を歩く』(ちくま学芸文庫)、『信長の城』(岩波新書)、『城郭考古学の冒険』(幻冬舎新書)などがある。