福知山城。天守は復元したものだが、天守台石垣の原形は光秀時代にさかのぼる=筆者撮影
福知山城。天守は復元したものだが、天守台石垣の原形は光秀時代にさかのぼる=筆者撮影

 織田信長の家臣のなかで、競うように業績を上げたライバル、明智光秀と木下藤吉郎(羽柴秀吉)。ひとりは信長の後継者として、もうひとりは信長を殺害する謀反人として袂を分かつ。その謀反人・明智光秀が築城した2つの城、「福知山城」と「周山城」を見ると、なぜ光秀が信長に謀反を起こしたかがおぼろげながら見えてくる。城郭考古学者で奈良大学教授・名古屋市立大学特任教授の千田嘉博氏が読み解く。(朝日新書『歴史を読み解く城歩き』から一部抜粋・再編集)

【明智光秀が織田信長を討ち取った場所の現在がこちら】

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■持続可能な動員を目指した「光秀軍法」

 明智光秀は織田信長に仕え、信長の天下統一に尽力した武将だった。出身は美濃(岐阜県)とも近江(滋賀県)ともいわれ、生まれた年にも諸説ある。つまり、確実な史料では前半生が明らかにできず、名門の出身だったとは思えない。光秀本人も自身の若い頃を「瓦礫のように深く沈んだ身の上」と述べた(「明智光秀家中軍法」)。

 中世は一般に、個人の能力よりもどこの誰であるかを重視しがちだった。そうしたなかで、どこの誰かを問わず能力によって家臣を取り立てて活躍の場を与えた信長は、まさに戦国の「働き方改革」を実行した武将といえる。

 信長の家臣の中で、光秀と競うように業績を上げ、重臣に列した木下藤吉郎(羽柴秀吉)も出自ははっきりしなかった。主君が信長でなければ、光秀も秀吉もこれほどは活躍できなかっただろう。しかし、信長の「働き方改革」は苛烈を極めた。出自や家柄を問わなかった分、寝ないで働き、地方への転勤も単身赴任も受け入れた者だけが出世した。

 滋賀県長浜市の小谷城攻めでは、激しい暴風雨の夜中に信長本人が出陣して敵を撃退した。合戦終了後、信長は出遅れた家臣たちの怠慢を厳しく責めた(『信長公記』巻六)。これではまるで台風の最中に出勤を迫るどこかの会社と同じではないか。信長の「働き方改革」はあまりに行きすぎていた。

 光秀が築いた京都府福知山城は明治廃城後、復元運動がつづき、現在は一九八六年に復元した天守が立つ。天守内の資料館では、先に掲げた「明智光秀家中軍法」のレプリカを展示している。

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実現しなかった光秀の夢