この試合では同点の7回にのちにロッテに入団するレオネス・マーティン、そして元同僚の青木宣親(2018年にヤクルト復帰)に適時打を許して敗戦投手になるも、その後は中継ぎとしてレンジャーズの地区優勝に貢献。チーム4位の53試合に登板し、7勝3敗15ホールド、防御率2.09という好成績だった。

 2017年もチーム3位の50試合に投げたが、2018年は腰や肩の故障に悩まされて22試合の登板に終わると、カブスに移籍した2019年も2試合どまり。年明けの2020年1月に現役引退を表明した。

「もう潮時だと感じたんだ。そろそろ体をいたわる時だとね。もちろん理由はほかにもたくさんあった。家族のこと、自分の人生、いろんなことが頭に浮かんで、そろそろ新しい章に進むべきだと思ったんだよ」

 2006年のドラフトでダイヤモンドバックスから10巡目指名を受け、プロとして歩み始めた野球人生。マイナー時代はほぼ一貫して先発だったが、来日後にリリーフに転向して、2度のセ・リーグ最多セーブに輝いた。マイナーリーグ通算115試合、NPB通算260試合、そしてメジャー通算127試合。14年におよんだキャリアに別れを告げるのは、簡単なことではなかったという。

「なにしろそれまでの人生、ほとんど野球をしてきたわけだからね。自分にとっては心のよりどころのようなものさ。それがなくなるというのは本当に辛いことだったよ。ある程度は心の準備をしていても、いざとなったら悲しくなった。野球をプレーすること自体もそうだし、(マウンドに上がる)気持ちのたかぶりやアドレナリン、仲間と試合に臨む気持ち、すべてが恋しくなった」

 それでもバーネットが野球から離れることはなかった。引退を表明した直後に古巣のヤクルトから声をかけられ、編成部アドバイザーとして契約。この年の浦添キャンプに参加すると、その後も米国内で新外国人候補の調査を行うなど、現役時代とは違う形で野球に携わっている。ここ2年はコロナ禍のために来日はかなわなかったが、今年は3年ぶりに浦添に帰ってきた。

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今も変わらない“ヤクルト愛”