濃尾平野は海抜ゼロメートルほどの広大な平坦地であり、今日輪中地帯として知られる。そこに木曽川をはじめ大小の河川が乱流している。川は互いに対岸まで迫った敵軍同士が対峙する戦争の最前線であり、周囲に広がる川原は格好の戦場となる。乱流地帯には主要なものだけでも複数の渡河点がある。幕府の東海道軍は尾張国一宮から「方々の道」に分かれて進んだ。各所に散在する渡河点一つ一つが攻防の舞台となったのだった。

 東海道軍と比べると、東山道軍と北陸道軍の動きは『吾妻鏡』や『承久記』(慈光寺本)に詳しくは見えない。東海道軍は北条時房・泰時というのちに実力者となる二人が率いた主力であるため記録や伝承が残りやすい。これに対し、東山道軍と北陸道軍とは影が薄いのである。『承久記』諸本の中でも後世に成立し、信憑性がやや低い前田家本や古活字本によれば、五月三十日に越後国府(直江津)に至り、六月八日には越中・加賀国境の砺波山(黒坂)と、越中・能登国境の志保山とを突破した。砺波山の西側(加賀国側)は倶利伽羅峠の名でも知られる。砺波・志保両山は北陸道の要衝で、治承・寿永の乱でも木曾義仲や源行家ら源氏軍が北陸から京へ進軍する際、平氏軍との間で攻防の舞台となっている。『吾妻鏡』には六月八日に般若野荘を通過したことが記されている。般若野荘は砺波山の東麓だから、六月八日頃に北陸道軍が越中から加賀・能登へ進入したと考えられる。

「歴史道 Vol.24」
「歴史道 Vol.24」

 こうした北陸道軍の軍事行動に関連して、『吾妻鏡』に興味深い一節がある。五月二十九日に越後国加地荘願文山(新潟県新発田市)で、幕府軍の佐々木信実と上皇軍の酒匂家賢とが交戦した。信実が勝利したこの戦いを「関東の武士が官軍を負かした最初」と特筆しているのである。

 しかし、願文山は越後国の北部に位置しており、鎌倉から日本海側へ出て国府がある越後国の南部を通り越中に向かう北陸道軍の進軍ルートからは京と逆方面に外れている。仮に『承久記』が記すように、翌日にあたる三十日には遠く離れた越後国府に到達していたとすれば、このことともつじつまが合わない。

 これに関して近年の研究では、願文山の合戦は幕府軍と上皇軍との公的な戦争ではなく、地域での利益を追求する武士同士の私的な紛争であったと考えられている。幕府軍と上皇軍との戦乱に伴う社会的混乱に便乗して、個人的な権益を確保・拡大しようとした家賢の行動に対し、やはりこのエリアに権益を有していた信実が阻止しようとして、合戦に及んだ可能性がある。『吾妻鏡』は実態としては地域の局所的な紛争であったものを、幕府軍対上皇軍という図式にあてはめ、前者が後者に初めて勝利した記念すべき出来事と大書したのだった。治承・寿永の乱や南北朝の動乱では、現地勢力同士の局所的な紛争が、権力者同士の戦争と結びつき、戦火を全国化・長期化させた。承久の乱は短期決着だったが、水面下には武士一人ひとりの思惑が渦巻いている。

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 24 鎌倉幕府の滅亡』から