1787年に老中首座となった松平定信
1787年に老中首座となった松平定信

 組織に不満があっても、自分や家族の生活を考えれば、そう簡単には辞められない。組織で働く人ならば、誰もが多かれ少なかれ、ストレスを抱えているだろう。それは現代に限ったことではない。江戸の武士も「家格」の上下に泣き笑い、「出世」のために上司にゴマをすり、「利権」をむさぼり、「経費」削減に明け暮れていた。組織の論理に人生を左右されてきたのである。山本博文氏が著した『江戸の組織人』(朝日新書)は、大物老中・田沼意次、名奉行・大岡越前、火付盗賊改・長谷川平蔵などの有名人から無名の同心、御庭番、大奥の女中まで、幕府組織を事細かに検証し、重要な場面で組織人がどう動いたかを記している。本書から一部を抜粋して紹介する(※一部ルビなどは追記)。

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■何かと物入りの多い役職

 昇進すると、交際費や部下への体面で物入りが増え、かえって経済的に苦しくなることがある。

 江戸時代では、職務にかかわる経費も自分持ちだったから、なおさらその傾向が強い。職務がそもそも主君への奉公だという発想だから、職務遂行は与えられた知行(ちぎょう)で行う必要があったのである。

 もっとも、旗本の場合は、物入りの多い役職だと役料(やくりょう=役職手当のこと)が支給され、小身の旗本が高い役職に就くと、その役職の基準高と、家禄との差額が支給された。八代将軍吉宗の定めたこの制度を「足高(たしだか)の制」という。

 大名は、もともと一万石以上の知行を与えられているから、原則として、役職にかかわる経費は自分持ちである。現在の総理大臣にあたる老中の場合、三万石以上の譜代大名が任命されたから、当然、その経費は藩の収入から捻出することになる。

 天明七(一七八七)年六月、陸奥国白河藩主松平定信が、田沼意次失脚の後を受けて老中首座となった。いきなり老中の筆頭になったのは、彼が吉宗の孫であるという血筋による。

 定信の家臣水野為長(みずの・ためなが)という者が、幕政や世情について見聞したことを書き留めた『よしの冊子』には、次のようなことが書かれている。

「越中様(定信)は御老中にお成りになりましたが、賄賂を御取りにならないので、月々の物入りが多く、六月十九日より八月晦日までの間で、御普請関係の出費は除いて、金二千三百三十二両ほどの臨時の出費がありました」

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老中になると藩財政の三分の一以上が消える