こうした事から、頼家は政権の意思決定から排除された訳ではないといえよう。「十三人の合議制」なるものはなかったにしても、宿老が個別に頼家に意見をしたり諫めるという事はあった。若く未熟な頼家を支える体制は構築されていたのである。

 しかし、頼朝死後の鎌倉幕府は、有力御家人同士の血で血を洗う抗争が繰り返されることになる。『吾妻鏡』で「言語(弁舌)を巧みにする士」と評された梶原景時は、有力御家人66人の弾劾を受け、正治元年(1199)に失脚し、翌年には敗死。頼朝の乳母・比企尼の縁者として重用された比企能員も建仁三年(1203)に北条氏により謀殺。次第次第に北条氏が幕府内で力を増していくのであった。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.19』から