「母は一番に褒めてもらいたい存在」と話した忽那さん(撮影/写真部・東川哲也)
「母は一番に褒めてもらいたい存在」と話した忽那さん(撮影/写真部・東川哲也)

 2007年にドラマ『3年B組金八先生』で女優としてデビューし、数々の話題作に出演している女優の忽那汐里さん(28)。近年は活動の場を海外へ広げ、18年には映画『デッドプール2』で本格的なハリウッドデビューを果たした。グローバルな活躍を続ける忽那さんに、女優としての覚悟、家族への思い、今後の「野望」などを聞いた。

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――オーストラリアで生まれ、14歳で日本に移住しました。日本語はどこで勉強したんですか?

毎週土曜日に日本語の補習校があって、そこで勉強しました。ただ家では英語禁止だったんです。両親も日本人ですし、日本語と触れあう機会は多かったと思います。それでも、仕事をする上では難しい部分もありましたので、母と二人三脚で台本に振り仮名を書いたりしていました。母のサポートなしでは難しかったと思います。

――環境の変化による苦労はありましたか?

14歳という多感な時期に環境の変化があったのはすごく大きかったと思います。自分で客観的に感情を理解して、消化することができない年齢だったので戸惑いました。稀にですが、オーストラリアではアジア人として差別されたこともあって、「自分はアジア人なんだ」「日本人なんだ」って意識する機会が多かったんです。でも、いざ日本に来ると同級生との考え方とか価値観がまったく違う。若いうちからアイデンティティークライシスみたいな感覚は感じていました。

――そうした環境で学んだことはありますか?

今は自分の中で両方の文化が共存していて、いろんな視点で物事を見て感じとれるようになっていると思います。それは海外で仕事をする時にも、ちょうどバランスよく、うまく使えているんじゃないかなと。いろいろな国で仕事をするようになって、「日本人ほどまじめに仕事に向き合う人種はいないな」と感じます。そういう環境で仕事のベースを学ばせてもらえたのは、私の強みになっている気がします。

――海外で勝負をしようと決断したのはなぜですか?

実は、「ハリウッドに行きたい」と強く願っていたわけではないんです。日本で仕事をしていた後半の頃、海外の作品に出演する機会が増えて、台湾のホウ・シャオシェン監督やトルコとの合同作品に出演しました。16年に、ウェイン・ワン監督の『女が眠る時』という映画に出演したんですが、その時、ウェイン監督から「日本人でそんなに英語が話せるし、今はすごくいい時期。海外に挑戦したらいいと思う」と助言をいただいたんです。そこから徐々に扉が開いていった感じです。


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