俊寛への仕えを果たすため殉死も覚悟したほど、忠義の厚い有王丸さえ、死をためらう原因――それは俊寛の「後世を弔う」人物が、俊寛の娘のほかにいないこと。つまりは主立った身内や、有力な家臣、後ろ盾がいなかったのだろう。

 物語は平家絶頂の折が舞台で、平家に刃向かった俊寛を大々的に供養することも憚られたはずで、そんな時代に娘一人が遺されるのは、確かにあまりにも心細い。有王丸は自分こそ俊寛の「後世」を弔おうと、命をながらえた。

 実は『平家物語』にはこうした場面が数多くある。時に死さえ覚悟した人々の気持ちをも翻させてしまう怖れ――それは、「後世を弔う」親族や知人がいないことだったのだ。

『平家物語』に登場する木曽義仲(きそよしなか/源頼朝や義経とはいとこに当たる源氏の武将)には、樋口次郎兼光(ひぐちじろうかねみつ)という忠実な家臣がいた。兄弟同然に育った乳母子(義仲を養育した乳母の子)で、平家打倒のため命運をともにしてきた仲間である。

 義仲らは破竹の快進撃で平家を都落ちさせるものの、時の上皇であった後白河院(ごしらかわいん)(1127~92)と対立し、ついにはその要請を受けた源義経らの軍勢によって都を追われ、義仲はとうとう粟津(現在の滋賀県大津市南部)で討たれた。一方、樋口は児玉党(こだまとう)という軍勢によって生け捕りにされるのであるが、このとき彼は次のような言葉で、投降を説得されている。

「日来(ひごろ)は木曾殿の御内(みうち)に今井、樋口とて聞え給ひしかども、今は木曾殿うたれさせ給ひぬ。なにか苦しかるべき。我(われら)等が中へ降人(かうにん)になり給へ。勲功(くんこう)の賞(しやう)に申しかへて、命ばかりたすけ奉(たてまつ)らん。出家入道をもして、後世(ごせ)をとぶらひ参らせ給へ」

【現代語訳】
 いつも木曽殿のお身内には、今井(筆者注:義仲の乳母子の今井兼平(かねひら)のことで、樋口の弟)、樋口といって有名でいらっしゃいましたが、今はもう木曽殿はお討たれになってしまいました。何も差し支えはありますまい。どうか我々に降参してください。今度の手柄で恩賞を受ける代わりに、あなたの命をお助けしましょう。出家入道でもして、木曽殿の後世を弔ってさしあげなさい。(平家物語 巻九 樋口被討罰)

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