新政府が仰いだ「明治天皇」の実像 大久保利通らが目指した「政」と「軍」の中心とは (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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新政府が仰いだ「明治天皇」の実像 大久保利通らが目指した「政」と「軍」の中心とは

西川誠dot.#歴史道
明治天皇。『明治天皇御伝』より(国立国会図書館所蔵)

明治天皇。『明治天皇御伝』より(国立国会図書館所蔵)

週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』から

週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』から

 日本が近代化に向けて大きく動き出した明治時代。明治国家の「建国の父祖」として君臨していたのが明治天皇である。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』では、その明治天皇を特集。大日本帝国憲法の発布や日清・日露戦争の勝利など、西欧列強に負けない国家をけん引する役割を担った人物の真実とは――。

【図版】明治天皇「元服」までの過程

*  *  *
 鳥羽・伏見の戦いが終わったばかりの明治元年(慶応四、1868)一月二十三日、大久保利通は遷都論を提出した。都を大阪に移すという意見である。戦乱の最中になぜ大久保は都を移せというのか。

 大久保は言う。「一天の主と申し奉るものは斯く迄に有難きもの、下蒼生(人びと)といえるものは斯く迄に頼もしきもの」と上下が一致して感動する改革が必要である、しかし天皇は「玉廉の内に在し」ている現状では「民の父母たる天賦の御職掌に乖戻」する(天皇は国民の父母であるという天から授かった職務に違犯している)。そこで、仁徳天皇や外国の君主のように国中を訪ね万民を慈しみ育てる必要がある、そこで遷都をしなければならない、と主張した。

 新政府の天皇は公家に囲まれて国民と接触のない天皇であってはいけない、国民に有り難いと思って貰う天皇でなければならない。そのための遷都であった。

 大久保の唱える天皇像はそれまでの天子像と異なっていた。江戸時代の天皇はどのような存在であったのだろうか。 江戸時代御所は、さらには天皇までも禁裏と呼ばれた。みだりに近づいてはいけないという意味である。文久三年(1863)三月、孝明天皇が攘夷祈願のために賀茂神社に行幸したが、天皇の正式な外出はおよそ230年ぶりであった。天皇は皇居に隠されていた。

 他の像もあった。

 国学の大成者本居宣長は、京都留学中の宝暦六年(1756)、公家の参内姿を見て感動している。上の百官参賀の絵のように、公家が束帯で参内する姿は見物することができた。宣長は、公家の装束に古代の姿を確認した。つまり天皇・朝廷は、王朝文化が継続する雅と文の世界であった。睦仁(明治天皇)も、天皇の基礎的教養である和歌を、父孝明天皇から教わっている。


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