▼「それとこれとは別!」

 カフェでいつものように話をしていて、みんなで笑った後、ふっと「死にたくてしょうがないんだ」とあるばあちゃんがつぶやきました。「息子もじいさんも死んでしまい、私1人だけ生きていたってしょうがない、死にたくて死にたくてしょうがない」と、無限ループのように語り続けます。しばらくすると巾着をごそごそしだし、10種類位の薬を取り出して飲み始めました。「ところでばあちゃん、さっきから死にたい死にたいって言ってんだけども、その薬飲まなきゃ死ねるぞ」と言うと、ばあちゃんはしばらく沈黙。そして「それとこれとは別だから!」って怒り始めたのです。「ばあちゃん、生きたいんだな」「『死にたい』って思うのも丈夫な心と体を持ってないと言えないもんな」と思いました。

(以下、金田さんインタビュー)

 悲劇と喜劇って表裏一体じゃないですか。悲しい場所にはほっこりするような物語があり、ほっこりした話の裏にはすごく深い悲しみが共有されている。災害を笑い飛ばしてしまう、そういうものがどこかにないと人間は立ち上がってこられないと思うのです。それがレジリエンス、自己再生能力なのではないかと。厳しい場所でもね、ユーモアは必要なんですよ。悲しみの場はほぐされていなければならない。苦しんでいる自分たちをちょっと高いところから見守り、笑いに変えてしまう。置かれている状況をおかしみを持って、ちょっと軽みを持って見ていく。ユーモアはそういう人間の成熟した技術ですか、それが人を生かす大きな力、立ち直らせていく大きな要素の一つになっていると思います。

 一方、それはとても難しく、よほどその場に同化していないとだめですし、慈しみの心、本当にその人を思う心がないと誤解され、人を傷つけてしまう。「愛の即興アートだ」と私は言うのですが、人と人を結びつける、違う人間なんだけどその言葉を介して「そうだよね」ってわかりあえる、そのような言葉がユーモアの言葉なんだと思います。あんなに何も話さなかった人たちが互いに笑って、でも笑った後に悲しみの表情をする、けれどもその状況を織り込んだ言葉がまた発せられて。そうやって人間はとてもしなやかな、立ち直る力を持っているのだと思います。

(構成・藤岡敦子)