話し始めて1時間半位がたった頃、30代の女性が突然駆け込んできて、「私は笑わなくちゃいけないんですよね」と泣き崩れました。話を聞くと、両親を亡くした彼女が自宅跡で手を合わせていた時、私たちのラジオ番組でドイツの諺「にもかかわらず笑う」について聞いたそうです。事情を知るやいなや浜のばあちゃんたちの態度は一変しました。その女性の背中をさすったり手を握ったりして「あんたも大変だったね、もう大丈夫だからね」と寄り添う。今まで下ネタ話で盛り上がっていた人たちが彼女をやさしく包み込み、あらゆるものを超えた慈しみの場を感じました。浜という場所は歴史のなかで何回も津波が来て、遭難もあるし、海は恵みを与えてくれる一方で人の命も奪うということが人々の心に染みついている。老女たちのたくましさ、そしてその裏にある慈しみは半端じゃないと感じ入りました。

▼「じいちゃんはもっとハンサムだった」

 清子ばあちゃんの夫・吉平じいさんは震災当時介護サービスを受けていて、あの日送迎車ごと津波に流されました。一緒にじいさんのお地蔵さんを作ると、「よく似ている」と清子ばあちゃんは喜んでいました。ところが焼く段階で焦げてしまったのです。「壊れた」と伝えたら「じいさんをもう一度死なせることになる」。それはあり得ないことなので、そのまま持参することにしました。

 カフェの当日、清子ばあちゃんは到着する前から集会所で待っていました。お地蔵さんを渡す時、気を遣ったスタッフみんなが「いいねー」「吉平じいさんの誕生月だからハッピーバースデーやろう」と盛り上げてくれたのですが、彼女の瞳の奥には笑いが全くない。場が凍りつくなか「もう一回作る?」と切り出すと、「作る」とばあちゃん。一緒に3体作って焼き直し、今度はきれいに出来上がりました。それを持って行くと清子ばあちゃんはとても喜んでくれたのですが、そこからあらん限りの悪口雑言が始まりました。「ほんとにあの時はね、腹立ってしょうがなかったわ。私のじいさんはあんなに醜くなかったさ。ほんとにハンサムだったんだから!」。若かりし頃の吉平じいさんとの楽しい日々が80歳を超えた清子ばあちゃんのなかで蘇り、私たちも「ごめんな、ごめんな」と言いながら、二人のかつての温かい生活を想像しながら心の中で笑っていました。

▼欲たかり(欲張り)地蔵

 ケアの一端としてカフェで作っていたお地蔵さん。震災から数年は、参加した人皆がお地蔵さんの裏に亡くなった人や大切な人の名前を記していて、焼いた後、その人の依り代のようにして渡していました。ところが4,5年たった頃から、「家が欲しい」「お金が欲しい」などお地蔵さんに自分の願いを書くようになりました。ある時参加した人が「みんなの願いが叶うようにお地蔵さんを福耳にしよう」と言い出しました。大きな耳の裏にお金とか男や女とか書くのですが、大き過ぎる耳には「そんなに大きくすると欲たかりになるぞ、ぼろって取れるぞ」と笑いあう。焼いて時々割れたり落ちたりすると、「あんまり欲張りだから落ちてしまったぞ」とまたそれを笑いのタネにする。

 1、2年目と大変な時期を過ごして3年目でやっと落ち着いて、4,5年目になるとある程度先の道筋ができてきます。仮設住宅でも打ち解けてきて、普段は言いにくいようなことを言い合えるような雰囲気になってきたのでしょう。生きるために必要なことをお互い自由に語り合い、ちょっと高いところから自分の苦しい状況を俯瞰してそれを笑い飛ばしていく。お互いに笑い飛ばすというところにユーモアが成立していくのだと思います。

次のページ