わが子に「凶悪な鬼と戦え」と望むことは、母親としての苦悩をはらんでいたことであろう。しかし、それらの思いをすべて抱えて、彼女は愛する息子に、その責務を果たしなさい、と伝える。「悪鬼滅殺」の技を継承し、鬼と戦える者を育てていくことは、『鬼滅の刃』の世界の中で、それほどまでに喫緊な課題だったのだ。

 炎柱・煉獄杏寿郎の清廉な人格、折れない心、強靭な意思は、大好きだった母との思い出によって支えられてきた。

■「立派な炎柱」から「ダメな父親」になった槇寿郎

<情熱のある人だったのに ある日突然 剣士をやめた 突然 あんなにも熱心に俺たちを育ててくれていた人が なぜ>(煉獄杏寿郎/7巻・第55話「無限夢列車」)

 杏寿郎の父・煉獄槇寿郎は、ある時点までは、鬼殺隊を支える「柱」として、その剛腕をふるっていた。そして、その技を息子たちに指南していた。のちに訓練を怠り、酒浸りになるが、それでも現役の鬼殺隊隊士と十分に渡り合えるほどに強い。

 しかし、槇寿郎は妻・瑠火を失ったことから、それ以降、人が変わったようになってしまう。杏寿郎と千寿郎兄弟の、強く優しかった父は、荒々しく気難しい人物へと変化していった。

 過酷な選別試験と、厳しい修行、壮絶な鬼との死闘をくぐり抜け、「柱」になった杏寿郎に、「柱になったから何だ くだらん… どうでもいい」と槇寿郎は冷たい言葉を投げかける。なぜここまで、槇寿郎は息子たちに、つらくあたるようになってしまったのだろうか。

■「父」として、「息子」として

 妻・瑠火の死後、槇寿郎は、家族への愛ゆえに「家族を失うこと」にことさらおびえるようになる。武勇の誉れ高い「煉獄家」の人間である限り、自分は常に最前線で「鬼」と戦い、将来はわが子たちを死地に送り出さなくてはならない。「炎柱」の継承を続ける限りは、そのジレンマから抜け出すことはできない。そのため、槇寿郎は、自らが「炎柱」にふさわしくない振る舞いをすることによって、煉獄家の価値を壊し、剣士としての血統を終わらせようとした。

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瑠火は槇寿郎を誰よりも慕っていた