森さんは1983年第2次中曽根政権では文部大臣(当時)に就任しており、自民党文教族の1人として、教育行政に対して発言力を持っていた。

 学校史に寄稿したのは1998年ごろで、総理大臣就任の2年前だ。一国のトップを狙う派閥の領袖である。それゆえ、学校史では高校時代を回顧して母校愛を示すより、教育論を思い切りぶって存在感をアピールしたかったのかもしれない。

 一方、上野さんは「ピンクなハイスクール・ライフ」と称して思い出話に花を咲かせている。金沢二水高校の生徒数はほぼ男女同数であり、女子生徒はたいそう元気がよかった。1960年代半ば、まだ社会には男尊女卑の雰囲気が色濃く残っていた時代である。上野さんはこう綴る。

「女の子がやたらと目立っていた。クラブ活動でも女子が部長のクラブも少なくなく―――わが新聞部もそうだった―――、女の子たちは部長は男、副部長は女といった「役割分担」におとなしく納まっていなかった」
「何をするにも男の子と女の子がいっしょで、自然とカップルができた。二水では隣の学校になぐり込みをかけるような番長もいなければ、校内暴力もなかったが、かわりにナンパの学校だった。カップルができてもそれを排斥するような雰囲気はなく、むしろ文化祭はボーイフレンドの顔見せのようなものだった」「当時の二水にはうるさい校則も少なかった。制服は標準服だったし、冬のコートも自由だった。アルバイトも禁止されていなかったし、喫茶店に出入してもよかった」

 また、上野さんは新聞部員としてこんな記事を書いている。

「現在の高校の授業は、非常につまらない。(中略)私をも含めて、大多数の高校生は、授業中の自己を、少なくとも本来的な在り方であると考えていない。」(二水新聞1966年1月17日号)

 これについて、上野さんは筆者の問いかけにこう答えてくれた。

「とにかく授業は退屈で、教師を信用していませんでした。授業中は寝てばっかりです。高校生だったわたしは知的には早熟で、性的にはオクテだった。とても頭でっかちの少女でした。授業では知的好奇心が満たされず、本や雑誌ばかり読んでいました」(週刊朝日 2019年10月4日号)

 上野さんの精神形成の一端を知るようで、なかなか興味深い。

 もっとも、森さんにすれば、女子が「『役割分担』におとなしく納まっていなかった」という金沢二水体験をネガティブに受け止め、高校卒業後65年経っても忘れられず、「わきまえている」発言が飛び出してしまったのだろうか。うがった見方をすれば。

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