■石原裕次郎さんとの出会いが運命を変えた

 立教大学に進学し仏文学を学びながら、シャンソンの訳詩のアルバイトで学費と生活費は自分で稼いでいました。学生時代に最初の結婚をし、新婚旅行先の伊豆下田で、僕の運命を決定づける出来事がありました。
 
 石原裕次郎さんとの出会いです。映画のロケで下田を訪れていた裕さんに声をかけられ、訳がわからないまま一緒に酒を飲んでいると、「シャンソンの訳詩なんかで食っていけるのか? 日本の歌を書かないのかよ。流行歌をよ。ガツンとヒットを飛ばしてみなよ。気分いいぜ」と。
 
 いくら大スターとはいえ、あまりに遠慮のない言葉に少しムッとしましたが、それでも、僕はその言葉が頭から離れず、訳詩をやめて日本の歌を書く決意をしたのです。裕さんと出会って1年後にできた「涙と雨にぬれて」を持って石原プロを訪れました。作詩家・なかにし礼の誕生です。
 
 その後は「恋の奴隷」「石狩挽歌」「北酒場」などの歌を作り、ラジオパーソナリティーやテレビのコメンテーターも務めました。それでもなかなか生活が楽にならなかったのは、肩代わりしていた兄の借金返済に多くを奪われていたからです。

「見ればただ なんの苦もなき 水鳥の 足に暇なき我が思いかな」……まさにそんな心境でしたね。

■がんを克服できたのは、自分に正直だったから

 2012年、なんとなく声が引っかかるような感覚があり、病院で検査を受けると、食道がんであると診断されました。しかもステージIII。
 
 20代の頃から心臓に持病があって、57歳のときには発作で死のふちに立ったこともあり、人一倍健康管理には気を使っていたつもりでした。「なぜ、自分が……」。がん患者の多くが、そう衝撃を受けるといいますが、僕もまた同じでした。
 
 しかし、いまやがんは二人に一人がかかる病気。70歳を過ぎていた僕も、ほんらい覚悟しておくべきことですが、「自分だけは大丈夫だろう」と高をくくっていたわけです。
 

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がんを通じて“善き人”より”正直な人”に