個性派俳優・佐藤二朗さんが日々の生活や仕事で感じているジローイズムをお届けします。今回は、下積み時代について。
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「ええ、もちろん。下積み時代も良き思い出です」
テレビ画面に、そう答えた落語家さんが映っている。心底うらやましいと思う。僕なんか正直思い出したくもない。「暗黒の20代」と僕はよくそう言っているが、暗くて冷たい澱にずっと閉じ込められているような感覚だった。
ただ最近、ふと思う。僕は、こう、なんというか、幸せを感じるハードルが全体的にわりと低い。夕方、息子と手をつないで近所のスーパーに買い物に行くだけで、わりと十分な幸せを感じる。オレンジ色の空を息子と眺めながら、「あぁ、もうこれでいいな」…いや、いくない、いくない。そんな老成したことを言うような歳でもない。もちろん、向上したいとか、貪欲なところもある。しかし、些細なことで幸せを感じるのは、「暗黒の20代」があったからかもしれない。そしてその20代の時に知り合い、今も大事にしている人が何人もいる。
当コラムで前にも書いたように、映像で俳優をやり出して僕は今年で20年だ。ここは1つ、下積み時代を遠慮なく思い出してみよう。遠慮なく、下積み時代を自慢してみよう。
もうね。とにかく、金がなかったマジで。マジでマジでマジで。当時一緒に住んでいた彼女(今の妻)から「食費、交通費含め、これでなんとかしのげ」と1日1500円を財布に入れられた。バイトを終えて当時の最寄り駅を降りると、逆さにしたビールケースを椅子代わりにしてるような大衆居酒屋があったが、そこで呑むのが夢だった。家路につく僕の財布はいつも残りは数百円で、たとえ安く呑める赤提灯だって敷居がとんでもなく高かった。
当時住んでいた、いわゆるボロアパートには当たり前のように風呂がなかった。エアコンもない。お湯も出ない。芝居の稽古で夜遅くなったら一大事。近くの銭湯が深夜1時までだったから、それに間に合わなければその日は風呂に入れない。ちなみにその銭湯は、毎日必ず「次の定休日は〇月〇日ですぅ~」としつこいくらいに言う、いつもニコニコしているご高齢の女将さんが番台だったのだが、そんなことはいいんだが、とにかくその銭湯の営業時間に間に合わなかったら一大事。冬ならまだしも、ただでさえ汗っかきの僕だから真夏は大変。エアコンないし。