安倍首相の単独インタビューで最も象徴的だったのは17年5月3日、憲法記念日にあわせて、自衛隊の存在を9条に明記するなどの改憲案を示し、20年に改正憲法を施行する考えを読売新聞の単独インタビューで表明したものだ。

 その後の国会で自民党改憲草案との整合性について問われると、「私は内閣総理大臣として(予算委に)立っており、自民党総裁の考え方は読売新聞に書いてある。ぜひそれを熟読して頂いてもいい」と言って、野党の質問をかわす材料にも使われた。

■日常的な取材機会の減少

 そもそも、我々が報道などで目にしていた「ぶら下がり取材」はどのような経緯で始まり、その機会は失われたのだろうか。

 小泉純一郎氏が首相となり官邸入りした2001年4月26日夜、小泉首相は記者に囲まれると、「君たちが番の人たちか。よろしくね」と言って、首相番記者全員と握手。「歩きながらは話さないけどね。時々、立ち止まって話すよ」と宣言した。

 それまで官邸や国会では、歩いている首相の横に立って自由に質問ができた。そのルールを改め、政権側と官邸記者クラブが取り決めを交わし、原則1日2回、昼と夜に場所を決めてぶら下がりに応じる方式が導入された。最高権力者に対し、日常的に疑問を尋ねる公の取材機会が確保されていた。肝心なことは、官邸側が発信したいときにだけぶら下がりが設定されるのではなく、何を質問するかにかかわらず、日常的に取材機会が設けられていたということである。

 そうした国民との回路を閉じていったのは、皮肉にも記者会見のオープン化などを進めてきた民主党政権の菅直人内閣だった。

 菅政権は2010年6月9日、明確な理由を示さないまま、ぶら下がり取材を1回に減らし、月に1回程度記者会見を開く案を内閣記者会に提示。2011年3月11日の東日本大震災、福島第一原発事故を受けて、菅首相は災害対応に集中するため、ぶら下がり取材を当面見合わせることを官邸記者クラブに伝えた。同年9月に後を継いだ野田佳彦首相はそうした菅内閣の判断を固定化する。

 12年12月16日の総選挙の結果、安倍晋三氏が首相に返り咲いた。第1次政権時代に「カメラ目線」などと揶揄され、前任の小泉首相の存在に苦しんだ安倍首相にとっても、民主党政権が取材の回路を閉じたことは幸運であっただろう。「悪夢のような」と主張する民主党政権のルールをそのまま踏襲することになった。

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「公」の取材機会は加速度的に減っていった…