すなわち、当時の秋元はすでに第一線の作詞家であり、最初の全盛期を迎えようとしていた。江原(YOU)のような無名アイドルのデビュー曲がオリコン圏外に終わろうと、たいしたショックではなかったのではないか。

 しかし、彼とて、最初から売れていたわけではない。高校在学中に放送作家としてデビューしたものの、作詞家転身を志した当初はくすぶっていた。筆者が発行人を務めた雑誌「よい子の歌謡曲」(85年7月号)でインタビューした際、彼はこんな回想をしている。

「あっちこっちに『作詞やりたいんだけど』って声をかけて、けっこう作品持ってったりしたんだけど、全然レコードになんないわけ。 そんなレコードになんないような詞なんかより、台本1本書けばカネになるから、納得いかなくなって」

 放送作家としての単調な多忙さに疲弊しつつ「言葉一つで悩む、って感じの」作詞家になりたくて苦闘する日々。そんななか、ようやく日の目を見たのが「言葉にしたくない天気」(81年)である。THE ALFEEのB面曲だったが、採用したディレクターのことを彼は「命の恩人」だと語った。が、A面曲ともどもヒットせず、苦闘は続いていく。

「そのあとも『機動戦士ムテキング』ってアニメの曲とかどうかなんて言われて、もうヤダ、耐えられない、ってんで、しばらくまた放送台本を」

 正確にいえば、これはアニメ「とんでも戦士ムテキング」(フジテレビ系)の挿入歌「タコローダンシング」(大杉久美子)のことだ 。レコード化は「言葉にしたくない天気」より早かったが、彼にとってはつまらない仕事だったのだろう。

 それでも作詞をやりたいという思いは消えず「1曲だけ詞が空いてる曲があるんだけど、詞つけてみる?」と持ちかけられたのが「ドラマティック・レイン」だった。これがまさに、起死回生の一発となる。

 ただ「あれでウヮーっと盛り上がるかな、って思ったら、そうでもなかった。一つ当てたぐらいじゃダメなんだ、って思いましたね」 とも。そんなとき、ラジオ「オールナイトニッポン」の放送作家として知り合っていた長渕剛が電話をかけてきた。アイドルのつちやかおり(のちの布川敏和・元夫人)を手がけることになったから、一緒に組もうというわけだ。これがきっかけで、長渕の新曲の詞も共作することに。この結果「GOOD-BYE青春」 が生まれるのである。

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「ねずみっ子クラブ」の大失敗