平等院鳳凰堂の“死者を迎えにくる仏”と極楽浄土への願い (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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平等院鳳凰堂の“死者を迎えにくる仏”と極楽浄土への願い

連載「あなたの知らない神社仏閣の世界」

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宇治・平等院鳳凰堂

宇治・平等院鳳凰堂

ハワイ・カネオヘの1/2スケールの平等院テンプル

ハワイ・カネオヘの1/2スケールの平等院テンプル

1万円札の鳳凰と10円玉の鳳凰堂の絵

1万円札の鳳凰と10円玉の鳳凰堂の絵

 京都・仁和寺では秘仏の国宝・薬師如来が寺内で初めて公開されている。コロナウイルスがおさまるようにと祈念されてのことだという。また、各地の神社仏閣で「平癒祈願」の行事も行われている一方で、人が集まることへの懸念との間でなかなかバランスは難しく、4月頃から毎年恒例で行われている「京都非公開文化財特別公開」は6月へ延期となっている。知り合いのお坊さまの話では、各家の法事も中止や延期の連絡が絶えないようだ。

【写真】ハワイ・カネオヘにある1/2スケールの平等院テンプル

●平安時代から続く「末法思想」

 平安時代後期に「末法思想」というものが世の中に広がり始めた。「教えは存在するが誰もそれを実現することができない時代」が末法で(こののち「滅法」となる)、いろいろな年代解釈があるが釈迦の死後1500年過ぎ頃を指すとされている。日本では貴族たちが争い、武士が台頭し始め、諸寺では腐敗がはびこっていた1052(永承7)年が「末法元年」と考えられ、以降は乱世が続くと予想された。時は藤原道長・頼通による摂政政治の最盛期が終えようとした頃である。

●宇治平等院は光源氏のものだった!?

 天皇の外戚として権勢を振るっていた藤原氏とは姻戚関係のない天皇(後三条天皇)が即位したことから、失意のうちに頼通は引退、父から受け継いだ宇治の別荘の邸宅部分を本堂にして寺院に改めた。これは末法元年と考えられている1052年3月28日(新暦4月29日)のことで、翌年には阿弥陀堂を造営、現在の平等院鳳凰堂のはじまりとなる。

 宇治の別荘はもともと、源氏物語の主人公・光源氏のモデルと言われている源融(みなもとのとおる)の持ち物だった。これが宇多天皇などを経て藤原道長にわたり、大荘園へと拡大していくのだが、大きな戦さが始まり権力が衰えていく中で、頼通は仏にすがろうという思いからの転換だったのだろうか。

●唯一残ったお堂が鳳凰堂

 それまでの仏教は現世利益を求めてのものだったが、末法思想では来世での幸せ、あるいは極楽浄土を願うものへと変化していく。これを願い藤原氏は平等院に多くの堂宇を建立した。宇治川近くの本堂をはじめとして、法華堂、多宝塔、不動堂、五大堂、経堂などがあったが、鳳凰堂以外は以後の戦火にかかり焼失してしまっている。

 現在残る鳳凰堂と堂内に鎮座する仏像群や壁画などはもちろん国宝であるし、ユネスコの世界遺産のひとつとして登録されている。


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