当時の所属先はゼッセル取という町クラブ。室屋とコンビを組みながら練習に明け暮れるだけでは足らず、クーバー・コーチング・スクールにも通ってドリブルやフェイントなどの高度なテクニックも養った。だが、それほどサッカーに邁進しても、小学生の頃は思うように勝てなかった。その最たるものが小6時に出場した全日本少年サッカー大会・大阪府予選。アバンティ関西(AVANTI KANSAI)というライバルチームに自らのオウンゴールで敗れるという屈辱を味わったのだ。試合に負けると泣くのは日常茶飯事だったが、この日の号泣ぶりは過去にないほど凄まじかった。「メッチャ泣きました」と本人も悔しさを今も脳裏に刻み付けているという。

「うまくなりたい」という一念で南野が次に赴いたのは、セレッソ大阪ジュニアユース。熊取から練習場のある西成区・南津守までは片道1時間半はゆうにかかる。ただ、そういった環境でも「電車に乗るのは好きやったし、自分1人だけ地元のやつより行動範囲が広いっていうことに世界が広がってる感じがして楽しかった」と感じられる彼には大物の資質があったのだろう。

 強気のメンタリティをセレッソ側も高く評価していた。が、中学生の頃はまだまだエゴイストな部分が見え隠れした。中1の時に指導を受けた横山貴之コーチからは「プレーが荒い」と怒鳴られ、練習中に「外に出ろ」と言われるケースも皆無ではなかった。

「あの頃は典型的な攻撃の選手のメンタルやった。ドリブルが好きで、それ以外のことになるとやる気がなくなったり、イラっとしたり、冷静さを欠いたりしたんで、怒られていたんだと思いますね」

 それでも可愛いのは、すぐに反省して謝りに行くところ。意地を張ってそのまま帰宅してしまうような悪態はつかなかった。中3になって進路で迷った時もそう。最初は「お兄ちゃんの進路と同じように、ユースに上がれる実力を持ちながら高校サッカーへ行こう」と妙な欲を出したが、当時の古賀琢磨U-15監督に「お前は胸に何をつけてるんや。セレッソのエンブレムだろ。プロになりたいんじゃないのか」とキッパリ言われ、瞬く間に考えを改めた。

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セレッソ大阪ユースでたたき込まれたもの