●本所松坂町の名前はもうないが

 吉良上野介が討たれた屋敷は、現在「吉良邸跡」(本所松坂公園)となっていて、上野介の像や屋敷にあった稲荷神社、首洗いの井戸などが残されている。

 また、内匠頭の正室・阿久理(のち瑤泉院)は、内匠頭亡き後実家の下屋敷へ戻るが、お墓は夫とともに泉岳寺にある。

 この下屋敷があったのが、赤坂氷川神社の境内だ。今は境内に何も残っていないが、「浅野土佐守邸跡」と書かれた表示板が立っている。

●「切腹最中」が人気商品に

 現在の皇居の中にも、「松の廊下跡」と記された看板がある。余談だが、江戸城内での刃傷沙汰は浅野内匠頭が最初でも最後でもない。その上、相手に刀を当てておきながら仕損じたのは内匠頭ただ一人。にもかかわらず、一番厳しいと思われる沙汰が下されたのである。もっとも、のちの時代に浅野家は再興を許されてはいるのだが。

 刃傷沙汰後、内匠頭が預けられ即日切腹させられたのは奥州一之関藩・田村家邸宅で、現在のその場所付近である新橋四丁目交差点には「浅野内匠頭終焉之地」というかなり大きな碑が建てられている。この通りの少し先にある和菓子屋には、この史実にちなんだ「切腹最中」という人気商品がある。よく考えられた忠臣蔵関連商品である。

 最後に義士たちの歩いた、両国から泉岳寺までの道のりをおさらいしてみよう。本所を出た一行は回向院(えこういん)へ向かうが入れてもらえず、泉岳寺を目指すことにした。隅田川を下ろうとするも船宿に断られ川沿いを歩く。永代橋たもとでとった休憩の場所には今では「赤穂義士休息の地」碑がある。永代橋を渡り、かつては浅野家上屋敷のあった場所から鐵砲洲(てっぽうず)稲荷神社を抜け、汐留橋を渡り海沿いの道をたどって泉岳寺へ向かった。

 泉岳寺で一行がようやくひと息をついた頃、江戸市中に討ち入りの噂が広まり始めた。「それまではただの寺なり泉岳寺」という川柳が示す通り、義士の入った泉岳寺は1日にして江戸で最も有名な寺となったのである。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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鈴子

鈴子

昭和生まれのライター&編集者。神社仏閣とパワースポットに関するブログ「東京のパワースポットを歩く」(https://tokyopowerspot.com/blog/)が好評。著書に「怨霊退散! TOKYO最強パワースポットを歩く!東東京編/西東京編」(ファミマ・ドット・コム)、「開運ご利益東京・下町散歩 」(Gakken Mook)、「山手線と総武線で「金運」さんぽ!! 」「大江戸線で『縁結び』さんぽ!!」(いずれも新翠舎電子書籍)など。得意ジャンルはほかに欧米を中心とした海外テレビドラマ。ハワイ好き

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