野球を愛した「悪童」伊良部秀輝、今も鮮明に残る“剛腕”の記憶 (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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野球を愛した「悪童」伊良部秀輝、今も鮮明に残る“剛腕”の記憶

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現役時代の伊良部秀輝 (c)朝日新聞社

現役時代の伊良部秀輝 (c)朝日新聞社

 突然の訃報から8年が経った。その巨体から繰り出す剛速球で、かつて「日本最速右腕」として日米にその名を轟かせた伊良部秀輝。その彼がロサンゼルス郊外にある自宅で自ら首を吊って死亡しているところを発見されたのが、2011年7月27日のことだった。

 波乱万丈の人生だった。生まれは、沖縄県コザ市(現在の沖縄市)。父親は在日米軍兵士だったがすぐに生き別れとなった。兵庫県尼崎市で“ヤンチャ”な子供時代を過ごし、当時から恵まれた体格で目立つ存在。中学時代はボーイズリーグ・兵庫尼崎の4番・エースとして活躍し、香川・尽誠学園高校で2度の甲子園出場。1987年のドラフト会議でロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から1位指名されてプロ入りを果たした。

 飛躍のキッカケは清原和博だった。高卒1年目から1軍登板を続けるもコントロールが定まらずに不完全燃焼。だが、その中でも2学年上のスター選手・清原に対して真っ向勝負を挑み続け、1993年5月3日の対戦時には当時の日本人最速となる158キロを2球連続で計測して大きな話題となった。その後、清原との対決は「平成の名勝負」と呼ばれる一方、その対戦で158キロを2球連続ファウル、さらに直後の157キロを2塁打とされたことで、速球だけでなく投球術を磨く転機になった。

 その成果もあり、同年の後半戦で自身7連勝を記録すると、翌1994年には最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。そこから3年連続2ケタ勝利をマークし、1995年、1996年には最優秀防御率のタイトルを獲得した。だが当時から我が強く、当時の広岡GMや江尻監督と衝突。降板指令に怒って帽子、グローブを1塁側スタンドに投げ入れ、采配批判として罰金処分を受けたこともあった。

「悪童・伊良部」はさらに騒動を巻き起こす。1996年、FA権を待たずにメジャー挑戦を直訴し、ヤンキース移籍にこだわって球団と衝突。日米球界を巻き込んだ騒動となり、最終的にロッテとパドレスとヤンキースの三角トレードという形で“ゴリ押し”決着となった(のちにポスティングシステム導入へとつながる)。その後、1997年7月にメジャー初登板初勝利を飾り、1998年、1999年と2年連続2ケタ勝利をマークしたが、降板時にブーイングを浴びせられたファンに唾を吐きかけたり、怠慢プレーも目立ったりして“ヒール役”のイメージが定着。さらにトレードでエクスポズへ移籍すると故障による長期離脱、さらにリハビリ中の飲酒・泥酔で意識不明となって病院に搬送されるなど、グラウンド内外で多くの批判を集める存在となった。


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