■「鉄道連隊」が短期間で敷設した野戦用線路

 三鷹駅から中島飛行機武蔵製作所跡、東久留米駅から中島航空金属田無製造所までの廃線跡は、いずれも遊歩道として整備され、当時の面影をしのぶことができる。

 しかし、両工場を結んでいた簡易鉄道は完全に姿を消し、“幻の鉄道”とされていた。保谷市公民館は1990年代に入り、空襲の記録調査の一環として、この鉄道に関する聞き取り調査を実施。「ほうや公民館だより」にその結果報告を掲載した。

東大農場の中を真っすぐに通っていた」
「青梅街道に遮断機を作って横切っていた」
「境橋の西側で石神井川を渡っていた」

 それらの証言によると、いまの住友重機工業の西側を起点に、新青梅街道付近まで南東方向へほぼ一直線に進み、南側へ転じて西武鉄道新宿線をくぐり、南東方向へ緩いカーブを描きながら都立武蔵野北高校付近で、当時の中島飛行機武蔵製作所の敷地内に入っていった。その間の距離は約4キロになる。簡易鉄道のレールも発見された。

“幻の鉄道”が敷かれたのは、1944年10月ごろ。地元住民のもとを「軍刀を下げ、マントを着た兵隊」が2人訪れ、「ここに鉄道線路を敷く」と告げた。まもなく兵士がやってきた。枕木も鉄製でレールと一体化していて、それを「パタンパタン」と置いてボルトでつないでいった。SLは「たらいのような煙突」で、最大5両ほどのトロッコを引いていたという。

 専門家によると、兵隊は旧帝国陸軍の「鉄道連隊」に所属し、線路は「軌匡(ききょう)」と呼ばれるものだったとみられる。鉄道連隊はいまの千葉市に第一連隊、習志野市に第二連隊の司令部を置いた旧帝国陸軍の部隊で、戦地での簡易鉄道敷設などにあたっていた。たとえば、いまの新京成電鉄新京成線(松戸~京成津田沼間、26.5キロ)の大部分は、鉄道連隊の演習線を改修した路線だった。

 軌匡とは、レールを鉄製の枕木に前もって溶接し、はしご状にしたもの。鉄道連隊の野戦用軽便鉄道の規格は、1メートルあたり6キログラムの重さのレールを、600ミリ幅の枕木に固定していた。“幻の鉄道”調査時に発見されたレールは、これに一致していた。「たらいのような煙突」をもつSLは、鉄道連隊の「K2形」「双合形」。トロッコは「97式軽貨車」が目撃証言に一致する。

“幻の鉄道”はおそらく中島飛行機の要望により、中島航空金属との連絡のために鉄道連隊が敷設にあたった簡易鉄道だった。田無製造所の敷地内にはエンジンのテストを行うための施設があり、武蔵製作所で組み立てたエンジンが貨車で運ばれていた。テストを終えたエンジンは再び武蔵製作所に戻され、のちに武蔵野競技場線の一部となった専用線で武蔵境駅を経て、群馬県の太田・小泉製作所など、各地の組立工場へと運ばれていった。

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空襲で線路は完全に破壊された