「生まれたとたんに、なんだ女の子か、と言われました。女の子の価値は生まれたときから男の子より安い。生まれたときからミソジニーは始まっているのです」と。

「女は天の半分を支える」と言われた共産中国でもそうなのだ。というより、改革開放が始まってあからさまな市場体制が導入されてから、そして一人っ子政策のもとでは、女性差別は強まっている。中国の出生性比は男児対女児が113・5対100(2015年)。女の子は受胎時から選別され、胎児のあいだに中絶され、出生時に葬られているかもしれない、異常な数値である。

 。誰でもこの概念ツールを使って、自分の属する社会の応用問題を解きたくなるだろう。そのくらい、この概念ツールの切れ味は抜群だからだ。「ああ、あれがホモソーシャルね」
「やっぱり。ホモフォビアなんだ」「ミソジニーが原因か」と。

 事実韓国では「韓国版ミソジニー」の書物が刊行されたと聞いた。同じように「中国のミソジニー」「台湾のミソジニー」等々が登場するとおもしろい。そしていつかミソジニーの比較文化論ができるとよい。たとえばタイでは同性愛者に対する社会的許容度が高いが、そういう社会のホモソーシャリティのあり方は、他の社会と違うかもしれない。徴兵制のある韓国では「軍事化された男性性」の構築が問題になっているが、徴兵制のある社会とない社会でのホモフォビアのあり方には違いがあるかもしれない。そしてそのような微細な違いや亀裂から、ミソジニーからの脱洗脳の契機が垣間見えるかもしれない……。

 本書に力のこもった解説を書いて下さった中島京子さんも、「私の経験したミソジニー」に言及してくださった。本書は読者の「当事者研究」を誘発するだろう。誰でも思い当たることがあるはずだから。

 本書が解読可能であるかぎり、家父長制とミソジニーの重力圏から、読者は自由ではないだろう。やがて将来、本書が、理解することのできない、ふしぎな時代のふしぎな証言であるような時代は来るだろうか?(上野千鶴子) 

※「文庫版あとがき」をAERA.dot掲載にあたり一部編集しました。