40社程度の説明会に出て20社の選考会を受けると、15社の1~2次試験に残った。そこから5社の最終選考を受けることになり、第二希望だった物流会社から内定が出て広樹さんの就活は終わった。

 内定者説明会では、30代の社員が「うちは地味だけれど、社会から必要とされている仕事。目立たないが、一緒に若い力を働いてみたい」と意気込んでいた。広樹さんは、その言葉に心打たれ、「大企業は社員なんて使い捨て。従業員100人程度の会社だけれど、中小企業なら1人で2役を求められてスキルが高くなるのではないか」と考えた。

 会社の事業内容を詳細に調べて、仕事で必要であろう「危険物取扱者」の試験を自ら受けて合格。時間のあった夏休みには自治体が主催する無料のホームヘルパー2級の講座を受けて資格も取るなど、広樹さんは努力を惜しまなかった。

 年明け、「会議に参加してみないか」と会社から誘われ出席すると、前年度の事業報告や起こったミスなど細かなデータを説明され、信用が置ける会社と感じた。懇親会にも呼ばれ参加すると、社長は「3年かけて育てる」と言ってくれる。和気あいあいとした雰囲気に包まれた。「自分の就職活動は間違いなかっただろう」と広樹さんは確信を得たのだったが、その思いはすぐに裏切られた。

 入社すぐに倉庫を管理する部署に配属された。倉庫に入ってメーカーに卸す部品をフォークリフトで移動し、パソコンでデータを入力していく。朝6時に出勤して夜11時まで働き、月の残業はゆうに100時間を超えたが、残業代は20~30時間分しかついていなかった。大手就職支援会社の就職サイトに載っていた仕事内容も賃金も休日も全てが違っていた。

 過労がたたったのか1か月後、突然の膝の痛みを感じ、歩けなくなった。社長は「お前の責任で膝を痛めたのだから知らない」と手の平を返したように冷たい。上司は「しばらく負担を減らす」とかばってくれたものの、痛みが激しくなり松葉杖を使わなければ歩行できなくなった。すると、わけもわからぬまま会社を退職するよう促され、入社2か月、試用期間のうちに失業してしまった。

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退職後、ニートに転落