こうした創作活動に加え、コンドームやアダルトグッズを扱う事業の立ち上げなど、さまざまなこと全部が同時進行で進んでいた。資金を集めるため、毎日いろんな会社の社長に会う飯島さんを、紗理奈さんは覚えている。

「新会社で売り出す予定だったコンドームも、たくさんもらいました。コンドームを持つことも恥ずかしいことじゃないし、ラブグッズも普通の女の子が気軽に手に取れるようなオーバーグラウンドなものにしたいと言っていましたね」

 飯島さんが手を差し伸べるのは、いつも弱い人。

「私も愛さんに助けてもらった一人ですが、いつもマイノリティの味方だった。理解者が少ない人や、人と同じように生きられない人をかわいがったり。一方で人の悪口を言ったり弱い者いじめをする人は、ほんまに許さなかったんですよ。私が『あの子って、こうだから』と悪口を言ったときも、怒られたことがある。『知らないでしょ? あの子も苦労してんだからさ』って。悪口を言う人や権力を振りかざす側の人には食ってかかっていき、正面で戦っていた印象。すごい人ですね。だからみんな、愛さんが大好きだったんだと思います」

 かと思えば、飯島さんを張り込んでいた写真週刊誌の記者に「寒いだろ。今日も何も撮るもんないぞ。紗理奈といるだけだから」と、スープを差し入れたりもしていたという。コンビニの店員にも「頑張れよ」と声をかけたり、紗理奈さんにとっての飯島さんは、「口は悪いけど、愛のかたまり」だった。

振り切って生きた人

 そんな飯島さんと最後に連絡を取ったのは、2008年12月16日。亡くなったとされる17日の前日のことだ。疲れていたのかこの頃には、「いつも愛さんに話を聞いてもらう絶対的な妹」であったはずの紗理奈さんに、逆に飯島さんが相談を持ちかけるようなことも増えていた。この日も「疲れたからマッサージ行きたい。付き合って」というメールをもらったが、その日、ひどく疲れていた紗理奈さんは「もう寝ます」と断ってしまう。

「あんたは強いから大丈夫。スーパーウーマン」

 その後返ってきたそんな不思議なメールが 飯島さんからの最後のメッセージとなった。

「ほんまにおらへん人やと思う。あんな人、もう出てこないと思うから。メディアの人はこれから先もずっと、愛さんのことを伝えていってほしいです。やっぱり他の人とは違うんです。してきた苦労も違うと思う。泥水もすすってきたやろうし、遊んだ数も半端ないやろうし。ほんまに振り切って生きた人だから」

 飯島さん、よかったね。そのDNAを受け継いだ妹分の紗理奈さんは、今もバラエティで活躍するほか、昨年、海外の映画賞を受賞するなど、マルチに活躍中だ。

(文/福光恵 編集協力/福井しほ)